2016年 06月 29日
柱の傷は |
1949年竣工、1950年入居、という浜松市営松城アパートを見学してきました。
女子学生の中にはおっかなびっくり、そーっと背中に触れば「ぎゃーっ。」とパニックに陥りそうなものもいました。「何か出そう。」というのでしょうね。
私など戦後の日本人の暮らしが透けて見えるようで面白かったです。小学校5年生で漁村から中心市街地に引っ越してきて、一番びっくりしたのは女子の溌剌としていることでした。商店の子供が多かったのと、高学年で女子の発育の方が早いせいか、鼻を垂らして、
いぇー、おらさー、、、
という漁村の娘達との落差があまりに大きく、とてもかなわない、という感じでした。今とは違い日本が一番やんちゃだった頃だと思います。
その中で楚々とした美少女だった恭子ちゃんが、丘の上の真っ白なアパートに住んでいたのが、この松城アパートにまつわる思い出です。
まあお互いにじいさんばあさんになっていますが、室内に入ると55年前の恭子ちゃんに会えるような気がしました。
しかし学生たちはそんな青春の甘い思い出などではなく「恨みを持った怨霊が化けて出るのではないか。」と思ったようです。
戦争の影を背負ってはいるものの、この建物が過ごした時間は日本が一番やんちゃだった頃で、建物の記憶も明るいものが多いと思うのです。「何か出る。」にしても鉄腕アトム・サザエさん・ドラえもんなどではないかと思うのですが。
怨霊の本場はやはり京都でしょう。街角のあちこちに犬小屋くらいの祠がたくさんあり、丁寧に祀られているのを見ると、粗末に扱うと祟りがあるのかもしれない、と思ってしまいます。
祟らないものは忘れてしまってもいい。というのが、この国の作法であり、産業近代化の活力の元でもあったようです。
祟らないものは忘れてしまってもいい。というのが、この国の作法であり、産業近代化の活力の元でもあったようです。
ある町のまちづくりで、長く保育園として使われてきた敷地に、地域物産センターを作りたい、という話がありました。
現在残されている保育園の園舎を改装したらどうか。
と提案したことがありました。地域の人々の幼い日の思い出、子育ての時代の友人との思い出などが、地域の特産物を育てていることが感じてもらえるのではないかと思ったのです。ところがあまり受けが良くありませんでした。
とびきり新しい、木のぬくもりを大切にする、先端的な建物がいい。
ということのようでした。それはそれ、なのですが、地域が時代に翻弄される「影のない村」になってしまいそうな気もします。
日本と対照的に歴史の浅い米国では、とにかく古いものには価値がある。という風潮があります。そんな中で秋山東一先生に教えていただいた、
What Happens After They’re Built
Stewart Brand 1994
という刺激的なタイトルの本が、なかなか面白いです。
今までに一番多くのノーベル賞を出した建物は、第二次大戦中に、原爆の開発に使われた建物で、敷地の要件が建築基準法に合わない、戦時の仮設建築だったのだが、研究者が自由に改造出来ることから、その後も使い続けられた、という話に始まって、各種の建物は「建てられた時には赤ん坊で、多年人々に使い続けられて、一人前になる。」と説いています。
伊勢神宮の式年造営とは対極にある考え方です。しばらく前の日本の住宅は一度建てたら三代使う、ということで、三代目ぐらいになると柱に背丈の印を刻み込んでも叱られない、というものでした。
今ではそれが一世一代になってしまい、30年経ったら壊して建て替えなければならない、ということになってしまいました。日本の産業廃棄物の2/3が建設廃材という、先進工業国の中で奇怪なことになっているのも、それが原因でしょう。これは伊勢神宮の式年造営とは別の筋書きだと思います。
地産地消という割には住宅に限ってはプレハブメーカーが幅を利かせ、30年で粗大ごみ、というバラックを量産して売り上げを伸ばします。
今の日本人は一生かかって家一軒、それも30年で粗大ごみ、というバラックで我慢して、プレハブメーカーにご奉仕しなければならないのです。柱と見えるものも実は外材、下手をすればオガクズを固めたものに、木曽ヒノキの柄を印刷した紙を貼り付けたもので、背丈の傷を刻むのも結構工夫が要ります。
人生の大方をそうした「記憶のない家」で暮らすのも、なんだか「影のない人」を育てているような気がします。
by dehoudai
| 2016-06-29 08:56
| 浜松の都市伝説
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