2016年 06月 17日
Anne’s House of Dreams |
アンの夢の家
モンゴメリ
村岡花子訳
新潮文庫 昭和33年
という小説だった。海辺の情景描写があちこちにちりばめられている。思春期に「女を知る教科書」として読んでいたのだが、こうした海の情景にも惹かれていたのだろう。
こちらは1985年1月の天竜川口
One evening Anne and Gilbert finally walked down to the Four Winds light. The day had begun sombrely in gray cloud and mist, but it had ended in a pomp of scarlet and gold.
Over the western hills beyond the harbor were amber deeps and crystalline shallows, with the fire of sunset below.
The north was a mackerel sky of little, fiery golden clouds.
The red light flamed on the white sails of a vessel gliding down the channel, bound to a southern port in a land of palms.
Beyond her, it smote upon and incarnadined the shining, white, grassless faces of the sand dunes.
To the right, it fell on the old house among the willows up the brook, and gave it for a fleeting space casements more splendid than those of an old cathedral.
They glowed out of its quiet and grayness like the throbbing, blood-red thoughts of a vivid soul imprisoned in a dull husk of environment.
Anne’s House of Dreams
Lucy Maud Montgomery
McClelland, Goodchild and Stewart 1917
その昔読んでいた村岡訳は次のようなものだ。
ある夕方、ついにアンとギルバートはフォア・ウインズの灯合さして出かけた。その日は灰色の雲と霧でいんきに明けたが、然し、華やかな緋色と黄金でおわった。
港の向うの西の丘の上には琥珀色の深みと水晶のような淡い色がたもこめ、下は燃えるまっかな夕日に海になっていた。
北は燃えたつ黄金色の小さな雲が漂う鯖空となっていた。綜椙の木茂る南田の港をさして海峡を渡る一隻の白帆に赤い光がうつった。
船の向うの草のない輝く砂丘の而も赤く染まった。
右手の小川の上流の柳にかこまれたあの古い家に光はおち、瞬間、古い寺院の窓よりもっと壮麗な窓を描いた。
陰気な殼の中に閉じ込められながらも、活気を失わぬ魂の中に脈打つ燃える思いのように、その窓は灰色の無風状態の中から輝きを放っていた。
原書出版は1917年というから、第一次世界大戦の戦中に発行されている。物語の舞台はそれよりも20年以上前、産業革命の波がカナダの田舎にも押し寄せ始めた頃だ。
著者の自然への思いは、そうした近代産業と伝統的な暮らし、という対比が底流となっている。
馬車と帆船だった移動手段に汽車が登場し、非地上の移動に飛躍的な変化が現れる。やがて医者は自家用車を使わねばならないことになってゆく。東海道浜松宿の人々が鉄道に熱狂し、あっという間に工業都市への道をたどり始める頃だ。
同じ対立は我々の眼の前にも繰り広げられている。
「大自然への挑戦」というわけで、近代産業は様々な手段で自然をねじ伏せようとしてきた。しかし人間が短期間に手にした利得に比べると、長い時間の後に現れる「自然を損なうものに対する、自然の治癒力」の前には到底叶わないことを知らされる。
電源開発などによって遠州灘の砂浜は痩せ細り続け、天竜川が運び続けていた砂はダムを埋め尽くそうとしている。五島の浜だけでは間に合わず、観光名所の「中田島砂丘」前面にもテトラポットによる離岸堤が作られ始めているが、到底自然の力にかなうものではないだろう。 近代科学技術を信じていた我々に襲い掛かったのが、東北大震災だった。そこで被災地の海辺に出現したのは、豊葦原瑞穂の国の原風景だ。
私はとてもついていけないから、2階に避難する。
ここも浜辺の景色に見えるが、松の木の手前には家が立ち並び、イチゴの産地として栄えた村があったのだ。
その昔、嫁入り前の娘に、あそこへは「死んでも行くな。」と親が諭したところだそうだ。開拓で暗いうちから暗くなってまで嫁をこき使う、と言われたようだが、そうやって苦労の末に見事な農業経営をし、それが誇りだった。
しかし親の教えには伊達藩の命により、浜街道維持のために入植させられた折の、古い津波の記憶もあったのかもしれない。
さらに事態を悲惨にしているのは、驕り高ぶった人間が
天照大神が言うことを聞かないなら、作ってしまえ。
ということで現れた原発だった。
「アンの夢の家」の著者はうつ病が嵩じて自ら命を絶った、とされるが、それには第一次大戦が大きな影を落としているだろう。
著者は近代科学の行く末に人類の欲望、一神教が陥る「世界征服の野望」を感じていたのかもしれない。便利だと思っていた汽車は出征兵士を運ぶためのものだった。
その世界大戦の折に、飛躍的な殺傷能力を高めたものの一つに、大砲の薬莢があるそうだ。
それまで木綿の袋に火薬を詰めたもので、砲弾を押し込んだ後ろへ入れていたものをピストルと同じく真鍮にして、あらかじめ砲弾と組み合わせておく、ということで、大砲の威力が格段に進歩したそうだ。
ところがそれを支えたのが日本産の銅鉱だったことはあまり知られていない。19世紀まで世界最大の銅の産出国だった日本では、第一次大戦で需要が格段に高まり、銅の産出額は史上最高となった。ところが軍事物資であるため、目方の記録はあるが、売り上げの記録はウェブを見渡しただけでは目に付かない。
日本の大衆消費時代の幕開けともいうべき「大正モダン」の裏側には、こうした人知れぬ事情もあった。
古川・住友・三菱といった旧御三家に対し、この時に急成長した久原産業は、その後常陸国を拠点として、偽天照大神でも大きな利益を得ている。
日本における銅の産出額が史上最高を記録したのが大正6年だそうだ。この年に出版された「アンの夢の家」の著者をうつ病に追い込んだ、第一次大戦における殺傷能力の近代化を支えたのが、常陸国の国策企業だと考えると、
堤防なんて作らねでも、元の砂浜に戻して、それで困らない暮らしをすればよかっぺ。
という町民の声が耳に戻ってくる。
by dehoudai
| 2016-06-17 05:59
| まちづくり
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