2016年 05月 27日
もち鰹あります。 |
先日から御前崎港への水揚げが増え、次いで舞阪港へ世間の船が入っている。というわけで街中に「もち鰹あります」という張り札が溢れているので、ちょっと街を一周してみた。
弱くなってはいるが、遠州灘沖冷水塊が沖へ去ったわけでもなかろうから、MEナンバーの船が来ているのは、志摩でどこぞの旦那衆が寄合いをやるというので、海上警備に追っ払われたのではなかろうか。
こちらはもち鰹とは関係ないが、焼津の磯自慢が浜松でプロモーションを進めているようだ。「鰯ヶ島」という、いかにも魚臭そうな場所にあるのだが、海端の湧き水を探すと、日本酒の醸造に最適な水が得られる、というのは灘の宮水が有名だ。
やはり"Fisherman's Toast"と銘した磐城壽は浪江町の、やはり海端の湧き水で美味い酒を作っていたのが、津波で消えてしまった。それだけならまだしも、放射能で再建できない、というのは怒りきれないところだろう。
前線が通過して、昨日から梅雨の前触れみたいな天気だ。縁台で片肌脱ぎで飲るというのが、その昔の鰹の食い方だろう。
サーファー好みの洋風の店でも、結局魚食となるの鰹としらす、となってしまうのは伝統のなせる技だろう。「もち鰹のポキ」「もち鰹のガリシア風」なんてのを開発する店はないだろうか。世界の海端でも鰹を上げる港はあちこちにあるだろうし、長距離輸送の発達しない前の、地元の食べ方というのもあるはずだ。
全国チェーンの居酒屋では、もち鰹を食べるのは先の話だろう。
生の魚を食べる、というのはサプライチェーンが延びれば延びるほど、危険性が増すだけだ。
ローマ皇帝が地中海の魚と黒海の魚を生簀に入れて客に見せた、という通り、一昔前には皇帝にしか許されない贅沢だったのだ。
それを誰でもどこでも同じものが食べられる、ということにしてしまったのが、米国式の大衆文化なのかもしれないが、世界の魚食の頂点に立つ日本では「津々浦々」という言葉が長く使われてきた。
しかしそれもTPPで風前の灯だ。
個人経営の、馴染み客しか来ない店なら、食中毒があっても、親父が平謝りをするか、将来を悲観して投身し、魚の餌になればすれば済むが、全国チェーンではそうもいかず、世界にほこる日本の魚食もツマランものになっていくのだ。
駅ビルにも「もち鰹」の張り札は見られなかった。地元の店であっても、ビル管理会社が、サプライチェーンの長い、危険性の多い食べ物を前提にして「管理」しようとするからだろう。 駅南はしばらく前に比べると少しのんびりしてきたようだ。その昔、この辺りにも「つけ馬」を引き連れてご帰還、という旦那衆がいたと言う話を、息子殿に聞いたことがある。
駅ビルにも「もち鰹」の張り札は見られなかった。地元の店であっても、ビル管理会社が、サプライチェーンの長い、危険性の多い食べ物を前提にして「管理」しようとするからだろう。
陣太鼓とオール300は焼き鳥の銘店なので、もち鰹は関係ないのだ。
SERVITUももち鰹とは関係なさそうだ。豚の頭は2,400円。 駅前の飲み屋の古参と言うと、あずまやと京浜亭だろう。
面白いのは千歳町には殆ど「もち鰹あります」の張り札が無いことだ。戦後長く社用族の接待役を務め、ツケで飲む人が多いからだろう。
面白いのは千歳町には殆ど「もち鰹あります」の張り札が無いことだ。戦後長く社用族の接待役を務め、ツケで飲む人が多いからだろう。
そうした店では御前崎から来た鰹を出せば、客をしくじる恐れもあるだろう。張り札などなくても舞阪港に船が入っていれば、それを出すのが当然、という矜持があるのではなかろうか。お馴染みさんなら遅くに行っても「ちゃんと取ってありますよ。」みたいな。
千歳町は幕藩時代「後道」と呼ばれていたそうで、組屋敷に帰るオサムライサンが御酒を嗜んでいたところだそうだ。現在の客筋にも、二の丸からおいでの方々も混じっておる。
江戸っ子と称するのも駿河・遠州・三河が正体なので、江戸っ子の初鰹趣味も、ここいらの町内から持ち込んだものやもしれぬ。公方様三河御在城の折には、鯉と鮒が献上魚だったものが、浜松へ来て、入出の御用網が嵐で破れた時に、鯉鮒に代えて鱸と黒鯛を献上したら、すっかり海の魚にはまってしまったそうだ。舞阪港まで三里だが、江ノ島なら二里もないので、一心太助が走るにはちょうど良い。
こちらもそうした「商工会議所の裏」みたいな店だったものが、区画整理でZazaに取り込まれてしまった雰囲気。まあ一見さん向きの張り札をしているが、親父が空模様を見て風干しを作り続けている。緑の提灯が目印。 千歳に比べると、遊楽街・魚町は若者向きみたいな雰囲気で、張り札対抗戦をやっている。
逆に「鰹だけは食わせん」みたいな店ももちろんある。
by dehoudai
| 2016-05-27 10:34
| たべもの
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