2016年 05月 22日
15cm |
明日義母の四十九日なので遠州森町一藤山随松寺で墓掃除。
和尚さんが来たので、報国院殿という鈴木藤三郎さんの位牌はどこにあるのか聞いたら、上段の開山様の座像の横にあった。探しても見つからない訳だ。
山梨の地域振興施設には、台湾から送られた鳥居信平さんの銅像がある、と申し上げたら、
銅像はあります。
と言って壇上から鈴木藤三郎さんの銅像を取り出して見せてくれた。高さ15cmほどの銅像は、背筋を伸ばし八字髭の先端もピンと伸びた、いかにも明治の偉人、という感じのものだった。藤三郎さんが若い頃に作った自分の銅像、ということだった。
聞くと藤三郎さんの親友宅にあったのだが、親友が亡くなり、子どもも亡くなると、若き日の鈴木藤三郎銅像と言っても、持て余し気味だったようなので、お寺に寄進してもらったそうだ。タイムカプセルというのもお寺の大切な機能だ。
議会にも謀らず、勝手に自分の銅像を、県立公園に建てて撤去された、というどこぞの県知事が新聞種になったことがあった。あちらは痴呆老人だが、こちらは悪戯小僧という感じで、15cmと言うのが良い。
藤三郎さんも優等生というより悪戯小僧だったのだろう。ネットで台湾に広まると、観光客が来るかもしれないと申し上げた。鈴木藤三郎さんが功成り名を上げてから建立したのは、自分の銅像ではなく観音像だった。
和尚さんの弁舌鮮やかなのに聴き惚れて、写真を撮るのを忘れてしたったので、次回だ。
流れも清き太田川の川沿いにあったリプトンの工場は緑茶の工場に変わっていた、蒸し・揉捻・乾燥といった工程の時間などを変えてやれば、紅茶の工場も緑茶の工場も設備は変わらないのだろう。
紫色大稻埕は昭和4年になっている。江逸安君と彩雲ちゃんが明治神宮かどこかを散歩する間に、郭雪湖君は「特選御買上金三百圓也」と順調に画家の道を歩むが、
アナキスト新劇はブチ込む。
と出口をふさがれた石銘新劇團の團長は、ついに鴉片と言う危険水域へ。日本全体が大日本精神病に蝕まれてゆく時代だ。
160830
鈴木籐三郎が若い頃作ったという、立身出世した自分の銅像、というのを写真に収めてきた。義父も大正元年生、ということは四捨五入すれば明治の人であり、立身出世の時代の人だ。 鼻の下横一文字に髭を伸ばしているが、軍人という感じでも無いようだ。
by dehoudai
| 2016-05-22 17:06
| まちづくり
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