2016年 04月 13日
ラッキョの皮をむく |
たくさん作ってもすぐに食べてしまうけど、自分で皮をむくなら買ってやる。
仰せのとおりにいたします。
かなこちゃんがいたころには、TAXMANを掛けながら、いくらでもむけただろうに仕方がない。今では夫が相手だ。
昭和の初めから、浜松の近郷近在には織屋が至る所に建てられました。ノコギリ屋根の下から、今で言えば騒音公害で騒がれるような大きな音がしていたのです。
ガチャ
と織るたびに金が転がり込んでくる。一日中
ガチャガチャガチャガチャ
とやっておれば、万という金が転がり込んでくる。というわけで、近郊農村地帯の織物長者が「ガチャ万」と呼ばれました。
第二次大戦が終わると、織屋・染物屋は戦前と同じく反物担いで全国へ、そして反物担いで海外へと、販路を広げました。
韓国・台湾・インドネシアなど、各地での追い上げが始まると、織屋や織屋相手に商売をしていた織機屋から、ポンポンに転じるものが出てきました。楽器屋がポンポンを始めるときには、役員全員が嫌がって、新会社の役員をクジ引きで決めたそうです。反物担いで出かけた販売先で、ポンポンを売り出すと、これも売れまくりました。
HONDAもSUZUKIもYAMAHAも、皆浜松出身だ。
と言うと、目が点になってしまう外国人が多いのです。
さて、反物・織機・バイクを担いで世界に売り歩いた、近郊農村地帯の次三男は羽振りもよく、相生町だけでなく千歳や遊楽街でも豪遊を続けていました。もともと米だけを真面目に作っていた農家の長男の中にも、次三男の話から次の一手を考え出すものが出てきても不思議はありません。
千歳あたりの料亭で、多分は次三男のおもりで、付き出しに出たモロキュウをかじりながら、
まてよ、うちのキュウリにはまだ花が付いてるけえが、花をつけたままここへ出しゃあ、ウケるかもしれん。
と考えたものがいたかもしれません。付き出しに出たモロキュウが、2ツ割ならまだしも、4ツ割の巨大なものだったかもしれません。早速村へ帰って仲間と研究を始め、東京の青物市場へサンプルを持ち込み、夜には、サンプルをあちこちの飲み屋街へバラまいたのでしょう。
これが大当たりしたのであります。しかしモロキュウは後発産地の追い上げが厳しそうです。すぐに二の矢を放たねばなりません。そして第二弾として白羽の矢が立ったのが五島地区のラッキョでした。おろ抜きのラッキョの皮を茎をつけたままきれいにむき、S字型に折って紐で縛ります。モロキュウ同様、飲み屋の付き出しように特化した商品です。
多分研究会のメンバー相生の料亭で日本酒、というのでなく、千歳のバーでウィスキーをやりながら商品開発の話をしていて、
ラッキョじゃウィスキーには似合わんら。
と言うと、洋装のマダムが
あれ、フランスにもラッキョあるら。エシャレットっていうだに。
と言うことになったのかもしれません。こうして飲み屋の突き出し第二弾は「エシャレット」と銘打って、華々しくデビューし、見事全国制覇を果たしたのであります。
最近では仏国のエシャレットから抗議が出て「サンドパール」という商品名を作ったのですが、五島の産地では未だに「エシャ」と呼んでいます。
by dehoudai
| 2016-04-13 07:33
| まちづくり
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