2016年 04月 11日
共同橋 |
テレビドラマでは本日、蓬莱橋がバックに使われていました。物語の舞台設定からすれば、これは「共同橋」でしょう。
現在の共同橋はいつごろできたのか、名前の由来は、と興味は尽きません。蓬莱橋が茶原へ通う賃取橋だったのに対し、共同橋は街中の橋です。1984年頃の白羽町あたりなら、ロケに使うことができたかもしれません。
立派な親柱には昭和9年とありました。概ね物語の時代背景と一致するのではないでしょうか。当時は土木工事にも意匠設計があった時代でした。しばらく前まで、コンクリート擬石仕上げの欄干があったように記憶していますが、現在は鉄製の平凡なガードレールになっています。
市内の用水堀に掛かる小さな橋も、関東大震災の後で順次コンクリートの「永久橋」に掛け替えられました。小さな橋でも中には意匠に凝ったものがあります。
大正14年に木戸町が現在の地割になるまで、向こう岸も船越だったのでしょうか?相生町というのは東海道沿いの限られた地割で、用水堀沿いは佐藤町なのだそうです。
東海道馬込橋脇の土手には「山伏町」というのもあったそうです。(前掲書)
相生町掛塚往還入口には明治6年6月から明治15年8月まで、仇討禁止令の制札が立っていたそうです。(前掲書)遠州報国隊の元隊員や、それを仇と狙う元浜松藩士などが、この辺りで呑んだくれていたのかもしれません。
共同橋
by dehoudai
| 2016-04-11 11:32
| まちづくり
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