2016年 04月 08日
船越 |
さる人が子供に
お父さん、染物屋ってどんな仕事するの?
染物屋は相生で飲む。千歳で飲むこともある。
である。さる人の祖父は染物屋で営業をやっていたのだ。テレビの染物屋は天竜の河原みたいな場所で浴衣地を干していたが、遠州の染物屋が浴衣地を晒していたのは馬込川なのではあるまいか。
その昔には馬込川が天龍川の本流だったものを、徳川家康が川替えをやって池田の流れに天龍を移したのだから、それまではもっと立派な川だったのだろう。船越町というのは天竜川の渡しの御朱印を持っていたからだ。
会田文彬
昭和28年12月
浜松出版社・中央図書館蔵
19650-60年代には馬込川そのものが浴衣の色に染まっていた。図は1984年3月に撮ったもの。
一時はパリコレクションの布地などせっせと染めていた工場も、今ではマンションだのウォルマートだのになってしまった。それでも市内の端切屋には今でも時折ホノルル空国際空港の職員制服の生地などが流出していることがある。相生の飲み屋街も姿を消し、その頃の面影を伝えるのは、花火大会ぐらいだ。
馬込川を下ってみませう。 白羽町まで下ると、浜松藩の蔵米を掛塚へへ送った頃の面影が残っていました。
伊場の、現在の商工会議所の南側には、まだ明治の初めに作られた、浜名湖に通じる井之田堀運河の面影が残っていました。
新幹線の高架が終わって、駅南では古屋が取り壊しを待っています。
街中には西武 キューバほどではないが、溢れるクラシックカー。「バブル」で煽らなくても、日本がやんちゃだった頃です。
160411 テレビでは本日は蓬莱橋がバックに使われていました。物語の舞台設定からすれば、これは「共同橋」でしょう。現在の共同橋はいつごろできたのか、名前の由来は、と興味は尽きません。蓬莱橋が茶原へ通う賃取橋だったのに対し、共同橋は街中の橋です。
大正14年に木戸町が現在の地割になるまでは、向こう岸も船越だったのでしょうか?相生町というのは東海道沿いの限られた地割で、用水堀沿いは佐藤町なのだそうです。相生町掛塚往還入口には明治15年8月まで、仇討禁止令の制札が立っていたそうです(前掲書)。遠州報国隊の元隊員や、それを仇と狙う元浜松藩士などが、この辺りで呑んだくれていたのかもしれません。
ラッキョの皮をむく
昭和初期の浜松
共同橋
船越
by dehoudai
| 2016-04-08 23:13
| まちづくり
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