2016年 03月 20日
遠州報国隊 |
利町公園の奥に「戊辰之役報国隊記念碑」という石碑が建っているのをご存知だろうか。これが不思議な石碑だ。
表面には「戊辰之役報国隊記念碑」とあり、裏面には上に
報国隊
春来大総督ニ随従致シ、不一方勉励之段神妙之至リニ候、今般東北平定ニ付帰国申付候得共緩急奉公可致旨御沙汰候事
十一月
軍務官
という御沙汰書の写しがあり、以下隊員の氏名を連ね、明治40年11月とある。感状とも呼ばれる御沙汰書は、石碑によくある、功績を高らかにうたったものでなく「もう終わったから、オマエラ国へ帰れ。」というぶっきらぼうなものとも感じられる。
石碑建立の明治40年11月というのも、日露戦争役成りて後、講和条件への不満が高まって日比谷焼き討ち事件などが起きた時代だ。報国隊の功績を高らかにうたおうにも、明治維新の是非に直結してしまい、甲論乙駁で不測の事態を招きかねない、という恐れもあったのではないだろうか。この石碑からは遠州報国隊の姿は直接には伝わってこない。むしろそれが遠州報国隊の実相かもしれない。
まず頭に浮かんだのは
沢村田之助曙草子
芳川春涛閲 岡本起泉綴 楊洲周延画
島鮮堂綱島亀吉 明治13年7月3日御届
所収
だった。慶応4年正月3日に鳥羽伏見で会桑などからなる幕軍が薩長土の官軍にボロ負けすると、2月9日有栖川宮熾仁親王を東征大総督とする東征軍が江戸を目指す。
すでに薩摩藩であろうが、長州藩であろうが、土佐藩であろうが、官軍の襲い来るまでもなく、財政赤字で徳川幕府は「死に体」だったのだ。遠州報国隊員の中には「官軍に入れば、酒が飲めるのだな?」というものがいても不思議はない。
「勝てば官軍」の言葉通り、官軍は進むにつれて膨れ上がる。譜代親藩も次々と官軍に恭順するが、尾張藩など尾張中納言御国入り以来の鬱憤がたまっていたかもしれない。
遠州は賀茂真淵以来国学の盛んなところ、と言われる。国学というのは儒教・朱子学という漢学に対する言葉でもあろう。歌学・古学がその柱として取り上げられるが、出雲を目指した内山真竜の旅行記を見ると、今でいう地理・民俗などを含む広範な興味がうかがわれ、「忠孝でオシマイ。」という朱子学に比べ、かなりのエンサイクロペディストだったのではないかと思われる。
そうした遠州で、大政奉還を受けて動いたのは五社神社・諏訪神社の神官などに学ぶ若者たちだったようだ。浜松藩御用達池田庄三郎の別荘、比禮廼舎で催される歌会に集う若者は、官軍東征の報を受けて、遠州一円に檄を飛ばしたらしい。
とにかく慶応4年2月末には遠州報国隊が結成され、官軍に従軍することとなった。浜松藩家老伏谷如水を隊長に、という話も出たが「議整わ」なかったようだ。
江戸では二重橋外旧老中宅を屯所として、江戸城諸門守備にあたり、大砲隊を編成、上野彰義隊が崩れると、今戸橋でこれを迎え討ったりしている。
11月になると、有栖川東征大総督宮熾仁親王が京都に帰ることとなり、冒頭の沙汰書きが酒肴料とともに下される。
御一新は成ったものの、浜松へ帰れば闇討ちに遭う恐れもあり、これを案じた大村益次郎によって、新たに作られた招魂社のガードマンに雇われた者もいるようだ。
明治維新によって「立身出世」をしたもの、武士の身分から秩禄まですべて失ったものと、隊員の運命は様々で、つまるところ石碑には「御沙汰書」を掲げることしかできなかったということか。対照的に
天下の御政道なんざ、どーでもいい、おらっちゃ素町人で良かった。
という平民の姿を、幕府公式浮世絵にしたのが、川鍋暁斎による文久31863年の「御上洛東海道」だ。幕府滅亡に向けての五条楽なのだが、行れ湯を揃え、絵師まで引き連れていたようだ。
桑名では将軍家茂がハマグリの吐き出した蜃気楼を見て、大政奉還の行く末を案じている。
明治維新静岡県勤王義団事歴
静岡県神社庁
昭和48年9月25日発行
などが詳しい。
by dehoudai
| 2016-03-20 15:15
| 浜松の都市伝説
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