2016年 03月 19日
庵山春風 |
雨上がりに通りかかったので、森町の庵山をのぞいてみた。
今は表札が変わっているが、茶碗屋の借家の裏の「氷砂糖長者」というのは、鈴木藤三郎さんのことだろう。
明治33年 総督児玉源太郎と民政長官後藤新平が、三井財閥を焚きつけて台湾製糖株式会社を創立した時の社長だった人だそうだ。藤三郎さんは当時、横浜の茶貿易長者から転じて、南葛飾郡砂村に製糖工場を建設していたそうだ。遺芳塔建立にも力があっただろうと思うと、そこはかとなく当時の台湾の香りがする。
鳥居信平さんを台湾に連れてきたのも、おそらく鈴木藤三郎さんだろう。明治36年衆議院議員、明治39年には私立周知農林学校を創立している。大日本紅茶製造株式会社(現在のブルックボンド静岡工場)も、そうした流れの上にあるのではなかろうか。
可睡斎の護国塔も明治40年、国権伸張の時代だ。
「望春風」という歌を思い出す。「四月望雨」で有名な鄧雨賢さんが1933年に作った名曲だ。当時の慣いで、流行歌がヒットすると、それをカバーする無声映画が作られたそうだ。農村の少女と名家の令嬢が「大東紅茶公司」の若旦那を挟んで、という悲恋のようで、見てみたいものだ。
最近の時代の台湾を描いたのムービーには「紫色大稲程」というのがあるようだ。
少年
茶商の若旦那で東京美術学校へ入りたい、と熱望している。親父に言われてお茶のパッケージなど作っている。
少女
舞台を夢見て「金色夜叉」など演じている、
というもの。外の通りには「台湾議会設立請願」の声が響いている。日本の中枢部が関東大震災のPTSDで「大日本精神病」の坂を転げ落ちていくよりも、少し前の時代の青春だろう。
時代背景は
Jamie Ford
Allison & Busby (2013/9/10)
にも似ているのだろうか。
160507
藤三郎さんの事績はこちらに詳しい。
鈴木藤三郎さんと共に周知農林学校を作るのに力のあった福川泉吾さんという方は、天保年間このかた相良湊より茶を津出しする荷主の中に見られる。世に秋葉街道というのもこうした江戸時代位以来の物流ルートなのだろう。
by dehoudai
| 2016-03-19 22:46
| まちづくり
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