2015年 09月 28日
小稲虎舞3 |
朝方寒くて毛布を足したが、秋晴れ、というわけではない。先島へ向う台風21号が秋雨前線を引き寄せているのだろう。相変わらず波の音が高い。
一夜開けてみると、昨夜のことは夢か幻か、という感じがする。浜には確かに虎山が残っているのだから、夢ではないのだ。 小稲といっても、これで全部だ。 昨晩和藤内に扮して大活躍をしたあっくんは中学2年生だそうだ。昔は毎年代わっていたものが、一昨年・昨年とあっくんのお兄さんがやったので、来年もあっくんがやるかもしれないが、その後はどうするのだろうと、民宿のおかみさんがしきりに心配していた。子供があっくんと同級生だとのことで、これから10年ほどが養育費の必要な時だ。
下流が人口300人、小稲を含め手石全体で600人、子供が少ないそうだ。
右側の建物の2階に泊まったのである。こちらが下流、遠くの山の切れ込んだところが打越峠だ。小稲は手石地内になるようだ。
オリンピックで観光客が来ても、それは一時のことで、終わってしまえば、観光はさらに落ち込むのではないだろうかと、不安でならないようだ。
下流が人口300人、小稲を含め手石全体で600人、子供が少ないそうだ。
和藤内は他所の子とか、公募とかは考えられないのか聞くと、
それは無理。小稲に生まれて、毎年祭りを見て育った子でないと、出来るわけがない。
とのこと。
小稲の山の上には分譲地があるそうだが、地元の人たちとはほとんど行き来がないそうだ。分譲別荘で優雅な老後、と考えたところで、自分の力ではどうにもならないことが多いはずだ。姥捨山と化していて、行政の負担になっていることと想像される。
吉田区が超高齢化しつつ、ばーばらが元気に生活しているようなわけにはいかないだろう。
東へ古いトンネルを抜けると、手石となり、向こうに湊が見える。どこかに海軍病院があったはずだ。源氏と平家が天下の覇権を争った頃「鯉名の合戦」というのがあったそうだ。伊豆水軍が鎌倉水軍の母体なのだろう。 小稲と手石を分ける岬を弥陀山と呼ぶそうだ。「弥陀の岩屋」というものがあるそうだ。古代の横穴式墓地なのかもしれない。 下田鵜嶋城も鎌倉幕府草創期の拠点であるそうな。城の下に内閣総理大臣吉田茂の揮毫を止める記念碑がある。
記念碑からは1960年、日米安保条約の頃の岸信介氏の、歯茎丸出しのお追従笑いが目に浮かんで好感は持てない。嘉永7年日本國米利堅合衆國和親條約を異人ぺろりが言い出したのは、
恐れ入りますが、捕鯨船に薪と水を分けておくんなさい。
ではなかったか。当時の英米捕鯨船団は、太平洋の鯨族を絶滅させんと争っていたのだ。そのためには下田はまたとない良港である。神奈川を開港せよ、というのは筋が通らないのは、後日東京裁判で石原莞爾将軍が述べたとおりだ。
今頃になって米国建国よりもはるかな昔から、持続的経営を伝えてきた、紀州の伝統捕鯨に言いがかりをつける連中を、取り締まって欲しい。
連休が終わり、地元の高齢者がコンビニに行くのを除けば、大した渋滞もない国道136号線をたどり、箱根八里の西半分を、オープンカーのマニュアル6速をフルに使ってよじ登り、芦ノ湖に至る。
お金の使い道にお困りの方々が建てた、美術館やら博物館やらが林立しているが、いずれも下品な感じがする。現代日本のオカネモチは、御一新以来150年ほどだから、まだ5代目くらいにしかならない。
財団ナルモノの設立費用が2億ほどというから、10億もあれば、なにがしかの形にはなるが、たたずまいからして、父祖のやらかしたことが透けて見えるのだ。
欧州の王侯貴族は500年余りなので、15代目位にあたるのだろうから、少しは上品になったかといえば、あちらは金欠病で、御出入りのカバン屋なども、中国のお金持ちに身売りをしたりして下品になっている。やはり本当の意味で上品になるには125代目くらいでないと難しい。
かくして我々は山降りると浜松へ向かったのであった。
by dehoudai
| 2015-09-28 22:24
| まちづくり
|
Comments(0)