2015年 09月 28日
小稲虎舞2 |
午後6時に夕食。漁期とのことで、立派な伊勢海老が出る。香港に行くと伊勢海老を龍になぞらえて「龍虎鍋」というものがあるそうで、虎舞見物にはちょうど良い趣向だ。彼の地では虎の肉は絶滅が危惧されるため、猫で代用しているそうだが、そちらは別に食わんでも良いぞ。
7時過ぎ、外に出ると波の音が一段と大きくなり、神子元島灯台が夕空を照らしている。 小稲へきてみたかったのは、一つには祖父が明治末年に、神子元島の灯台守りをしていたことがあって、明治37年生まれの家尊が、尋常小学校へ上がるか上がらぬかという頃に、一度だけ天城山を越えて、会いに行ったことがあると聞いていたからだ。もっとも本人は魚が美味かったのと、天城峠を越すのが大変で、母親を手こずらせた、しか覚えていなかった。
小稲の港の、虎山のあたりから、ちょうど正面が神子元島だ。
虎山の前に陣取って待つと、太鼓屋台が近づいてくる。といっても、えらくゆっくりと、一軒づつ丁寧に回りながらなので。打越の手前、村境から浜の虎山までほんの300m程を1時間近くかけて近づいてくる。一軒づつ御酒の奉献があったりするのだろう。虎山の周りもざわざわと人が増えてくる。 やがて太鼓屋台が下座に据わり、虎の作り物が広げられて、開演が近づく。というより、すでに虎が出る前から、浜は江戸時代の芝居小屋となっている。客は2-300人の入りだろうか。最前列は小学生が占拠している。延命のためか、車椅子で見物に来る高齢者もいる。国性爺合戦千里ヶ竹の場は2段目だということで、村の好き者は通し狂言を諳んじていて、一杯機嫌で一段目からの筋書きを追っているのだろう。 国性爺合戦
近松門左衛門
1715年大坂竹本座初演
晩年の沢村田之助が演ったという錦祥女は、千里ヶ竹の向こう、韃靼城にいるのだ。
村人によれば、昔下田へ国性爺合戦が掛かってえらく評判になり、その中から虎退治だけ持ってきた、ということだが、翌日村内を見ると初代式守伊之助生家、という標識が立っていた。1767-1793年の襲名というから、国性爺合戦初演から50年程、江戸の芝居小屋でも当り狂言となった頃ではなかろうか。興行ものでも、結構船を使っていたことが想像される。
やがて雌伏していた虎が太鼓とともに虎山に登り、暴れ出す。虎山の床板は打ち付けてあるわけでなく、虎が暴れるたびに巨大な鳴子といった仕掛けで轟音を発する。虎は周りの竹をなぎ倒し、時として仁王立ちになったり、欄干によって足を舐めたりしながら、暴れまわる。 最後は仁王立ちのまま虎山を降りて再び雌伏する。
最前列に陣取った小学生が
ねえ、ねえ、虎さわりに行こう。
と声をかける。高学年では女子の方が発育が早いのだが、弟らしいのは、
怖いからいやだ。
と、尻込みしている。とにかく虎山の上に虎が仁王立ちになると、4mちかいので、ゴジラが火を吹くところのようだ。虎山の床板が発する轟音が、波の音をかき消してしまう。
小休の後、もう一度虎が暴れ回る場面が続く。今度は照明が消えてしまった。係が繋ごうとするが、なかなかうまくいかない。特に仁王立ちのまま段を降りるところが危険なので、提灯で足元を照らすよう指示が飛ぶ。全体が暗いのも、江戸時代の芝居小屋を彷彿とさせる。
そしていよいよ三回目、和藤内が登場し、山で暴れ回る虎を押さえにかかる。「あっくんがんばれー。」と子供たちから声が飛ぶ。 虎山で大乱闘の末、和藤内が早替わりで全身血まみれになる。虎の返り血だろうか。数合あってやがて虎は和藤内に組み敷かれ、和藤内の陣屋に引かれて行き、本年の虎舞もめでたく終わる。
続きはこちらだ。iphone5ビデオなのでキタナイぞ。
東北の津々浦々にも虎舞があるというので、Youtubeで見てみた。エライ違いだ。東北は芸能の本場なので、各地で工夫を加え、立派にその地その地の地域芸能となっている。ところが小稲の虎舞は、愚直なまでに古式を伝承している様だ。
猿舞座の村崎修二さんに舞阪の祭りを見ていただいたことがあるが、
日本中探してもこれほど芸のない祭りはありません。
と太鼓判をいただいた。地域の芸能と結びついて、様々な創意工夫が加えられ、その地の地域芸能となるのが各地の太鼓だが、舞阪ではそうしたことがなく、ただただ古式のとおりに太鼓をたたくだけなのだ。
古式の伝承はメインステージにとどまらない。舞阪では休憩時間に陣屋に戻って酒を酌み交わす時に出てくるのは、今時の流行歌ではなく、江戸の俗曲であり「けそう」「おさるのかごや」といった、祭りの時だけやる子供の遊びも、古式がまるごと伝承されている。
西浦のカンノンサマでは、8-10世紀ごろの田楽が1,000年以上にわたって古式の通りに伝承されているが、長く口伝であったため、江戸時代に口述筆記されたセリフは判じ物と化していて、折口信夫先生は腰を抜かしてしまった。
能楽各流の謡本は江戸時代に広く流布したが「翁」は長く口伝で、書き記すことができなかったため、冒頭の
とうとうたらり たらりら
たらりあがり ららりとう
ちりやたらり たらりら
たらりあがり ららりとう
というのは、今では意味がわからず、おまじないになっている。それが西浦では一夜の番組全てが江戸中期まで口伝だったので、全てがおまじないっぽい。
小稲でもあっくんは和藤内のセリフを見事に諳んじているのだが、子供のことなので、意味を完全に理解していないところもあり、お経と同じで、そこのところだけ、何を言っているのかよく解らない。
徳川幕府というのは征夷大将軍、すなわち東北原住民掃討作戦総司令部なのだから、津々浦々の東北原住民が、江戸の流行りをそのまま受け入れるのは、ご先祖様に申し訳がないということもあろう、様々な創意工夫と地域の伝承に従って自家薬籠中のものとして、地域芸能となっているのではあるまいか。
それと対照的に駿遠豆三国は鎌倉以来征夷大将軍のバックヤードである。鎌倉水軍はすなわち伊豆水軍であり、徳川の世に至っても、江戸表に船を入れるためには、下田奉行所の御朱印が必要だった。北回りの千石船も、すべて江戸へ直航するのでなく、一旦下田に錨を下ろしたのだ。浦々に生簀を囲って、将軍様に生きたままの興津鯛を献上するなど、造作もないことだった。
江戸の流行りが伊豆の津々浦々に達するのに、そう日数はかからない。式守伊之助が小稲の人であるのは不思議ではないし、明治に入ると、村人が西洋式帆船の技術を見知って「君沢型」の帆船を作り、横浜の市場へ次の日に出せるということで、繭の「松崎相場」が全国の繭の値段を決めたのも不思議ではない。
今ではなかなか想像しにくいが、明治22年東海道鉄道が開通するまで、東西の物資輸送は海運が主だった。
今で言えば国内航空路・新幹線・高速道路・マイクロ回線を束ねたもののターミナルが下田であったわけだ。東都京都の流行りものの両方を、先ず目にすることができたのが下田だったのは、なにも偉人ペロリに始まることではない。
鎌倉以来、伊豆半島は「幕府の楽屋」だったのだ。
代官というと、テレビに出てくるのは150石取りくらいの、自治省の課長が部長になる前に、田舎荒らしをやりに来た様な役どころだが、伊豆國代官江川太郎左衛門は格が違う。徳川将軍の代官ではなく、源頼朝の代官であるので、遠国の二万石では足元にも及ばない。伊豆半島は鎌倉以来「幕府の楽屋」であった。
そう考えると静岡が「保守王国」と呼ばれるのも合点が行く。断っておかなければならないのは、ここでいう「保守」は、ナポレオン国民軍の仕掛けを取り入れて、天下取りに使った西国の足軽連を保守するのでなく、鎌倉以来対外戦争をしなかった歴代幕府を保守しようとするのだ。奥州連合の諸君は、宜しく将門の首塚に誓って、幕府と手を結べば、西国の足軽に勝つことができるはずだ。
伊豆が幕府の楽屋だったのと同様、芸能でも江戸時代の芸能が楽屋まで含めてそっくり伝承されている。H君が打越峠で向こうから来た人に
おめでとうございます。
と声をかけられたのと同じ情景が
多情仏心
里見弴 1922
に出てくる。あれは楽屋言葉なのだ。
歌舞伎座がめでたく新装なって、シャチョーさんが
私どもでは税金からの補助は1円も頂いておりません。
と胸を張っていた。大家さんが家賃の上がりで困らないのは、江戸時代と同じだ。しかし先年成田屋の小僧がJリーグ上がりをボコボコにしたついでに、
俺は人間国宝だから、何も演らねえったって、国が毎年1億円はくれるのさ。
と、舞台裏の仕掛けについて、口を滑らせたのはご愛嬌だ。成田屋一人に1億円をくれても、高級飲み屋の払いに消えてしまうのだから、舞台から大道具小道具、観衆から楽屋言葉、隣り村への寿司の振舞に至るまで、文化文政期の芝居をそっくり伝承している小稲区へ、ポンと毎年1億円くれてもバチは当たるめえ。 貸長屋を隠すご大層な小屋の作りは、お金持ちのお素人衆の目を、脅かす仕掛けであって、通は幕見だという。国姓爺も千里ヶ竹の虎退治だけ演る、というのがいかにも通だ。小稲の通人は数日前から、頭の中で国姓爺の初段からをさらって、明日から数日は大団円までを口三味線でやるのだろう。
近松門左衛門の台本を見ると、国性爺合戦二段目は、伊豆の小稲のような漁師町の情景を描写して半日、現地住民は別に見なくても良い。
重箱の昼食をぱくついて昼寝をし、浜に流れよった見知らぬ唐船から、大明皇帝御妹栴檀皇女が現れて、明国の窮地を語るところは、話の筋がこんぐらかっているので面倒だ。
船中重箱の弁当を使いながら、国姓爺が千里ヶ竹に着く頃には、日もとっぷりと暮れ果てるので、勘定は合う。
芝の生えているところでやるのが、芝居なのだから、コンクリート舗装をしてあっても、芝居という言葉からはこちらの方が本格だ。
by dehoudai
| 2015-09-28 11:49
| まちづくり
|
Comments(0)