2015年 09月 27日
小稲虎舞 |
思いもよらなかったのは、一緒に行ったH君が「もう終わったかな?」と、覗きにきたら、すれ違う人に
おめでとうございます。
と挨拶をされたそうだ。これについてはまた説明するが、とにかく、中秋の陽が落ちで、闇が辺りを包むと、子稲の浜は文化文政期の江戸の芝居小屋になってしまうのだった。
田子港で鰹節を買う。本朝食鑑(1697)に挙げられた田子節を売るうちは、一軒を残すのみで、後はマルハとアジノモトの委託加工になってしまったという。その一軒を「ダッシュ村」が襲い、ひどい目にあったのではなかろうか。 これは何も田子節に限らない。焼津の鰹節屋各社も、新工場は浙江省舟山市に移ってしまったので、30年前のようにバケツを下げて焼津まで行けば、豚屋へ行く残飯からいくらでもハラモをタダでもらえるわけではない。
それでも名勝堂ヶ島にはバスが止まっている。1961年の伊豆急開通以降「観光で食え」と言われ、静岡県道路公社が作ったマーガレットラインも、観光客が去ると元の静けさに戻る。その頃には「天草で家が建った。」と言われたものが、今となっては若者には伊豆急以前の暮らしには想像が及ばない。 16:20賀茂郡南伊豆町下流民宿坂下着。神子元島にはまだ火が入っていない。 部屋に落ち着くと波の音が大きい。荷物を置いて虎舞の現場を下調べに出かける。村はずれから「打越」という、峠とも呼べない低い坂を越えると、そこには全く別の世界がある。
下流で荒れ狂っていた外海の波が、東西の岬に遮られて、穏やかな水面が広がっている。下流では波の音がいかにも伊豆最南端に来たと、実感されるのだが、打越を超えて小稲行くと、人口から言えば狭い町内だが「津々浦々」ごとに自然環境も暮らし方も違う。小稲の浜が年に一度、文化文政期の江戸の芝居小屋になってしまうのは、こうした「場所の力」が大きいだろう。
小稲が良好であることは、源平の合戦の頃にはすでに軍事情報として両軍の知るところだったそうだ。伊豆半島各地には古墳も多く、その頃から伊豆水軍というのはあったのだろう。
17時前、屋台が来宮神社を出発する。来宮神社は木宮だという。皇年代記に
崇神天皇14年(3世紀)伊豆より大船を貢納す
とあるそうだ。大船は難波津へ曳かれ、枯野と名けて天皇が使う清水を汲むのに使われたそうだ。屋台といっても、太鼓が乗った「触太鼓」のようなものだ。 寒冷前線が近づいているが、秋とはいうもののまだ南風にあおられて空気は暖かい。17時前、夕食を取りに宿へ帰る。
小稲虎舞3
小稲虎舞2
小稲虎舞2
by dehoudai
| 2015-09-27 18:58
| まちづくり
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