2015年 08月 09日
あの日パナマホテルで |
ジェレミー・フォード 2009
前田一平 訳
集英社文庫 2015
しばらくぶりに読み返してみた。前回は英語の原書だったが、今回は日本語訳だ。
前田一平さんの訳がなかなかよろしい。同世代だろうか。一緒にシアトル国際地区を歩いている感じがする。アメリカを知るには日系アメリカ人、アジア系アメリカ人が一番の手がかりになると思う。北米百年櫻が、日本語で日系人の歴史を綴れる最後の世代で、我々の世代は日本語を喋れない世代、次の世代はジェレミーとサマンサがそうであるように、興味のある人だけ、という世代だろう。
本書でも「家族」が一つの縦糸になっているが、読者というものは子供と同じで、やはり気になるのは「それから?」だ。私が興味を持つのはヘンリーとケイコはえっちをしたのだろうかという点である。
浜松は狭い街である。小学校同級の女子の顔が頭に浮かぶ。先年はまりこさんとウォルマートで出くわしたことがあった。子供達に勧められて戸塚くんと離婚したと言っていた。えみこさんとは石橋君ちで顔を会わせることがある。あやみさんは相変わらずさっそうと女社長をしているだろう。
私には姉が5人いるが、えっちの方は顔が似てきた割には、一人一人違うようだ。一人は60歳近くになって
亭主が役立たずになった
と大暴れをし、人夫(ひとおっと)を追いかけまわしたりしていた。血のつながりはないとは言え、嫁の一人は姉が死ぬと義父をいびり出し、次には夫に向かって
散々ご奉仕したのだから、今度は奉仕してもらいます。
と宣言し、亭主の体内にあったタンパク質を吸い取ってしまったので、亭主は耳が聞こえなくなり、目が見えなくなってしまった。
えっちというのは、二人がいっしょに自然の摂理に支配されているから、幸せになるのだ。支配欲の強い女は、えっちを支配の道具に使おうとするから、おかしくなる。
若いうちから男をとっかえひっかえしても、幸せになれない女は大方この類だ。目的を取り違えているので、年を取っても幸せになることはなく、いつまでたっても飢えている。不感症というのがこれだろう。他者を支配するのはダイスキ、支配されるのはマッピラなので、自分が自然の摂理に支配されることも拒否しているのだ。
いじめというのがまさにこの支配欲の行使だ。いじめられっ子の方は支配--被支配が何かを心得ているが、いじめっ子の方は支配することで、快楽が得られると勘違いしている。どこまでいってもそれで快楽は得られないので、いじめには終りがない。必要なのはいじられっ子のケアでなく、いじめっ子のケアだ。
ケイコとヘンリーは、他者を支配することも自分が支配されることも、不幸なことだと体が知っている。親と子供に対する勤めも果たした。亡くなったお互いのパートナーを尊重することも心得ている。今は二人で体を自然の摂理に委ね、幸せになれるはずだ。
高齢者のえっちなんてのは、小説のジャンルとしてこれから需要がありそうなので、作者は次はそのあたりも、考えていることだろう。
by dehoudai
| 2015-08-09 17:13
| ほん
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