2015年 05月 04日
作左山 |
大御方様、三州鳳来寺峰之薬師へ男子出生の御念願有りて、通夜なされける夜の霊夢に、十二神将の内眞達羅大将を御袖に入れさせ給うと御覧あり、その月より御懐妊有りて御誕生の御男子家康公也。
とあるそうだ。大御方様の御袖に潜り込むような神将が12人も居たのでは、鳳来寺というのも大変物騒なところだったのだろう。この話を読んで思い出したのは
樹間に叫ぶ赤裸女
三田村鳶魚/公方様の話/雄山閣 大正13年/中公文庫 1997年
である。家康公が越前中納言秀康公の出自に御疑有り、御生母様となる御万の方を城中の立木に縛り付けて折檻したのだそうな。それを取りなしたのが本多作左衛門であり、のちにこれを賞して作左曲輪を賜ったというから、大方「城中の立木」というのは、作左山のあたりで、家康公の御疑念というのは、取りも直さず御自身のことでもあろう。
その作左山に大正12年に浜松市立女学校が移転してきた。まあとんでもないところへ女学校を建てたものだ。戦後の学制改革に当たって高等工業は練兵場の跡の兵舎へ、女学校は高等工業の跡へ引っ越し、作左山の旧地は私の母校、浜松市立中部中学校ということになった。中学時代
日は新た風もかほりて
作左山伝えゆかしき
現在の子供プールのあたりが作左山深谷で、小生の住むあたりの字名は作左山深谷境南と称する。深谷を挟んで北側は亀井山だ。御一新の後亀山町と称したが、大正の中頃佐藤牛肉店が棒屋中村と共同で、レジャーランドを開発し「鹿谷園」と称して売り出した。(亀山町史/村松十和吉編/亀山町自治会発行/昭和39年8月1日)
小さな谷が二筋切れ込んでおり、東側は現在の松韻亭、西側は鹿谷駐車場だったものを小中一貫校の運動場にするということで、工事をしている。現在の地図に見える中中のプールの取り壊しが終わり、松城幼稚園との間に擁壁を作る支度が進んでいる。
さみどりの 小松のごとく
というのはここに小松の茂る山が残っていたからで、プールのために山を削り取ってからは意味不明だ。 東から作佐山を見るとこうなる。中央左下から中央右上に伸びるのが奥山線の跡地。上は「亀山のトンネル」。奥山線の左中程が中中の運動場。運動場の左が作佐山。
運動場の上が現在工事中のプール跡地。プールから右に伸びる短冊状の平地が旧鹿谷駐車場、つまり亀井山西ノ谷。
vwxをアップしておいたので、欲しい人は下記からダウンロードして欲しい。
元ファイルはv2013
結局3dのままではdwgにならない。VectorWorks以外の人は面倒でも自分で2dから立ち上げてくれ。
鹿谷駐車場は無くなっても結構だが、由緒ある亀井山の地名を伝える亀山町を、レジャーランドの屋号を以って抹殺してしまうという、上から目線の住居表示は言語道断である。ノーベル賞をもらった天野君は「亀山町」の出身で「鹿谷園」の跡地で遊んでいたのだ。
亀井山西ノ谷にはその昔お仕置き場があり、後には「牛殺し」とも呼ばれたようだ。しかし文明開化で佐藤牛肉店のすき焼きに舌鼓を打つうち、お城にまつわる暗い記憶は忘れ去られてしまった。
現在のホテルの敷地も似たようなものだ。基礎工事で総堀を掛けたら、こっちからは胴体だけ、あっちからは頭だけの骨が出てきたそうな。先年そっちの感覚の鋭い人を泊めたら、
コヤマサン、ここはどういう場所ですか?
と聞かれた。夜通し鎧武者やら江戸時代の犯罪者やらが大勢出てきて、手柄話などするので、怖くはなかったが騒がしくて眠れなかったそうだ。
城跡というと鎧兜でチャンバラごっこをやりたがる手合いがいるが、やられる方はたまったもんではない。稲葉山に墓がある平手甚左衛門汎秀は、信玄から信長に乗り換えたものの、三方原の合戦で討ち取られてしまった。その首に信玄が付けて岐阜の信長に送った縁切り状も凄まじい。
一筆申し達し候、其方種々ことわりをもつて信玄と縁者に罷り成りたき由申さるるにつきよんどころなく云々
汝必らす天道に見放され軍神の御罰忽ちに蒙り手飼の犬などに骨肉を咬み挫かれ身命を空しく失い末代まで悪名を得ん事、汝信長疑い有るまじく侯。向後信玄二度と其方信長と通じ申すべからざる者也
浜松風土記/会田文彬/昭和28年12月/浜松出版社
と言う言葉通り、信長も飼い犬にやられちゃったのだが、その信玄も同じ年に死んでいる。
幕藩時代まで、戦争はオサムライサンが、ローマ時代のグラディエーターよろしく殺し合いをするもので、平民はそれを見物しておればよかった。「武芸者」が「芸者」の一種であることは朝鮮半島の「花郎」を見ればよくわかる。那須与一も宇治川の先陣争いも芸者の芸比べと考えれば辻褄が合う。
憲法9条は、そもそも国権の発動は経世済民の術比べであって、戦争は古来手柄を立てたい芸者の、自由参加による芸比べであり、経世済民の術をしくじったものが「国民皆兵」と称して、平民を巻き込む近代戦争はよろしくない、と言っているのではなかろうか。
国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
であるのである。
我々の中学在学中にはチョビサというのが補導のセンコーで、裏門のところで遅刻したものを叱りつけていた。何かで吉田が職員室に乗り込んで殴りかかろうとして謹慎になったこともある。先日ご子息にあったので、家庭内ではどうだったか聞いたら、しばし考えてから
気分屋だったね。
と言うのがお答えだった。ある時は家族にも圧政を敷く暴君、ある時は優しい父親だったのかもしれない。
by dehoudai
| 2015-05-04 13:08
| 浜松の都市伝説
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