2015年 04月 11日
梁田宿 |
慶応4年3月8日、幕府歩兵隊長古屋作左衛門率いる総勢1,800人は、信州を目指して日光例幣使街道を進み、野州梁田に宿をとっていた。
翌9日払暁、熊谷からこれを急襲した官軍200人によって幕軍は潰走した。というのが「梁田戦争」と呼ばれるものであるらしい。当時の梁田宿は貸座敷30数軒、遊女が200人以上いたそうだ。
明治100年栃木県の歩み
毎日新聞宇都宮支局 昭和43年
当時の戦争がどんなものか興味があったので、現場を見学してきた。現在の様子は次のようなものだ。宿場として栄えていた頃の面影は無い。正面左に見える、幕兵が泊まったという妓楼は住宅になってしまっている、それよりも大きな違いは、建物のあり方だ。冒頭の写真からは分かりにくいが、瓦の様子などからするに、1968年当時残っていた宿場の建物は、築100年以上のものだろうが、きちんと手入れをすればまだ100年以上は使えそうな建物に見える。
それが宿泊施設ではなく、住宅という違いはあるものの、現在建っている建物は、30年も経ったら建て替え、という趣だ。この50年で、日本の建築物の寿命は1/5以下になってしまったことをつくづく感じる。先進国の中で唯一、産業廃棄物の1/3が建設廃材という、異様な事態に陥ってしまっているのも、この50年の大きな変化だ。
産業廃棄物よりもさらに深刻なのは、大方の日本人が故郷の風景を失ってしまったことではなかろうか。自分が何者であるかは、自分を育ててくれた環境に負うものが大きい。その環境が激変することで、今の日本人は「影の無い男」のようなものになっているよう思える。
by dehoudai
| 2015-04-11 09:47
| まちづくり
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