2015年 03月 14日
宮口 |
図中二俣街道とあるのは現在のR362だ。家康が新居の渡しを通る五十三次を定める前の、平安時代からの東海道のひとつだ。
降っては安永8(1779)年村々の喧嘩で死人が出てしまい、村々衆議の上「御恐れ乍ら早打肩の発作で」と収めたのもこの近くだ。
さらに降っては
「東海遊侠伝」
天田愚庵 明治17年
の登場人物である小松の七五郎・大瀬の半五郎・大野の鶴吉・舞阪の富五郎なんてえ連中もこの近くであり、敵役の都田村はテクノパークの向こうがだ。石松が殺されたきっかけは上掲書によれば次の通り
萬延元年、四月、長五還願ノ事アリ、石松ヲシテ刀一口ヲ齊ラシ、之ヲ金比羅ニ賽ラシム、石松讃峡ニ至リ、事ヲ詑テ回リ、近江ニ過キリ、見受山鎌太郎ヲ訪フ、鎌大、長五ノ亡妻ノ爲メニ、銀二十五両ヲ奠ス、石松之ヲ受テ去リ、遠江ニ至リ、中郡ニ常吉ヲ訪フ、常吉兄アリ吉兵衛ト云フ、弟アリ梅吉ト云フ、其父源八、任侠ヲ以テ聞フ、三子皆父ノ遺業ヲ續ク、人故に其名ヲ冠シ、呼テ源八ノ某ト称ス、并ニ石松卜知友タリ、是ヨリ先キ、吉兵駿河ニ來リ、長五ノ家ニ客タリ、而シテ富嶋ノ年蔵等ト加嶋ニ下役ヲ斬リ、走テ其國ニ歸ル、偶々石松ノ來ルニ曾フ、吉兵、石松ノ典奠ヲ齊スヲ知リ、二弟ト之ヲ借ラント乞フ、石松辞シテ曰、是レ此ノ奠物、如何ソ之ヲ流用センヤ、若シ差失アル、我ソ何ノ辞カ歸リ老爺ニ見へンヤ、特ニ請フ之ヲ察セヨ、吉兵日、我レ急事アリ、計畫ニ暇ナシ、如今幸ニ汝ノ來ルニ曾フ、乃チ恥ヲ忍テ之ヲ求ム、汝若シ聽カサレハ、我レ其ノ知己タル所以ヲ知ラス、、、
家康の五十三次は西国の大名に負担を掛け、東海道筋に金をシェイクダウンするのが目的なので、手形を持たないものが通りかかったら、何をされるかわからないというところだった。素っ町人はこちらの東海道を利用したのだ。 明治22年東海道鉄道開通から、それほど遅れていないと思われる「文明開化式秋葉灯篭」が道祖神の脇に残してあったぞ。
by dehoudai
| 2015-03-14 15:05
| まちづくり
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