2015年 02月 02日
百間長屋 |
平安時代の何々殿というのは方一町、方二町といったものであったらしい。先日下野の国へ行って足利尊氏の屋敷を見たら、方二町であった。 中央の門から左を見るとこんな感じ。方二町というと120間X120間となる。都にあった「花の御所」は間口一町奥行二町だから、百間長屋というのはかなり大きい。
しかるに明治17年の地図で見る水戸殿の屋敷は、百間長屋どころではない、方二町よりはるかに大きいのだ。堀端から東に面した表門まで百間長屋があるが、奥の方へ変形した敷地が伸びており、全体では方二町の十倍以上ありそうだ。
幕末の桜田門外の変から天狗党の乱など、勤皇佐幕のしのぎ合いがあった頃には、城塞という機能を担っていたのだろう。孝明天皇の死は、その一つの結末とも言える。
徳川光圀公は足利尊氏逆賊説の家元だが、屋敷の広さを比べるとえらい違いだ。
小説東京帝国大学
松本清張全集21
小説東京帝国大学/サンデー毎日/1965-1966/松本清張全集21/文藝春秋/1973
には「南北朝問題」が描き出されているが、哲学館事件の頃にはまだ孝明天皇の死について、知るものも生きていたはずだ。末代将軍の徳川慶喜は水戸徳川家から将軍を襲職しているが、水戸徳川家にとってはこれが悲願であったのだろうか。その辺りのことを千年のNHK大河ドラマがやっていたが、あれにも描かれない部分が色々とあろう。
尾張徳川家の先代によれば、御三家といっても水戸徳川家は将軍を出す家ではなく、陪臣の家格だと仰っている。この辺りにも水戸学の発端がなかろうか。足利尊氏は「逆賊」だというが、水戸殿の屋敷は京都御所の倍となり、大きさから行けば「逆」である。
現在ではちょうど方二町に屋根を掛けて野球を見せるのが「巨人」だというから、三田村鳶魚先生なぞが知ればひっくり返ってしまうだろう。
by dehoudai
| 2015-02-02 21:37
| まちづくり
|
Comments(0)