2015年 01月 26日
退屈国 |
自動車に乗ってお家に帰るのも嫌で、電車に乗っていたいのだそうだ。疲れ気味の父君によれば、電車に乗っていれば、スカイツリーとかTDLに行けると考えているようなのだが、朝が遅かったので、今からでは帰りが夜になってしまうからダメ、とのこと。
周りの人の目線が集まってきて、形勢が悪くなったに気がついたのか、母君に「あんたが起きないからこうなるのよ。」と諭されて、とうとう黙ってしまった。 確かに浅草を出て春日部のあたりまでは、地平線までべったりと高密度住宅地が切れ目なく続いている。若君ならずとも退屈する景色ではある。 その昔「東京には空が無い。」と駄々をこねた歌人がおったが、今では「東京には景色がない。」というところまで来ているのではないだろうか。
館林まで来るとやっとこさ「利根の川風」みたいな趣が出てくる。館林が一番メラメラしていたのは東武鉄道が国有化の俎上に乗った時ではなかろうか。
面白かったのは草加駅ホーム端手前に「将棋駒・草加せんべい・養護老人ホーム」と並べた看板があった。将棋駒の職人が将棋駒作りに退屈し、草加せんべいの手伝いに出た女房がせんべ作りに退屈し、いっその事工場を潰してと、養護老人ホームが出来たのかしれん。
館林が一番キラキラしていたのは、綱吉公御国入りの際かもしれない。あるいはこれも裏で「退屈しのぎ」の糸を引いていたのは「悪友」柳沢吉保君ではあるまいか。
土地を買って隠居屋を建て、神奈川から引っ越して1年なので分からない。
時々手を合わせている年寄りがいるから、新興宗教かもしれない。
とのこと。現代日本では尊皇の念篤き人も居れば、ものを知らん奴も居るのだ。裏通りの酒屋で聞くと、やはり粉屋さんの屋敷で、粉屋の子は
戦時中、疎開してきて裏通りの家に住んでいた。
とのこと。小学校の頃から児童文学に興味があり、退屈ということはなかったかもしれない。世の人であれば退屈に耐えられない暮らしでも、労多くても、ご亭主に恵まれてお幸せそうに見える。
館林に行ってみたかったのは、井上正春公の事跡がわかるかもしれないと思ったためだった。浜松では遠州の綿業が盛んになったのは、正春公が館林から先進技術を移入したから、と信じられている。その詳細を訪ねたのだが、わかりやすい形にはなっていなかった。残念。
退屈国
by dehoudai
| 2015-01-26 23:49
| まちづくり
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