2015年 01月 12日
我慢国と面白国 |
飲屋で肴を食べる。生簀で踏ん張っていた蟹は焼いてカニ味噌で食べる。バブルの頃から魚のトラックで生簀が流行ったが、輪島ではやっていないとのこと。
本当の味を知りたければ、ここまで来い。
ということだろう。鱈が雪の魚であるには、それなりの謂れがあるのだろうが、聞き漏らした。そのまま食べても、雪のような味だ。生の白子があったので、白子和えにすると味が濃い。鰤は中々のものだ。蓄養の生簀では出世もままならぬ、ということか?
どうも能登は「我慢の国」であるらしい。典型的なのが輪島塗。数十工程を仕来たった通りに重ねなければ、思い浮かべる輪島塗にはならない。自分で想像できるのは限られた伝統継承者だけだろう。その下に付いて、仕来たりの工程を学び取るのは我慢の道のりだ。そうした「我慢の一生」が、実は幸せな生きかただ、と言う教えが総持寺には伝えられているのだろう。
新作の器が数万円からであるのに対し、古物の足付膳が500円から、というのが悲しい。忘れられた日本がここにはまだ息づいている。
「漆器」のことを”Japan ware”と称するが、欧米先進国で高い評価を受けて、初めて見直される、という波が近年に至り輪島にもやっと届き始めたようだ。若者は「和風」に代えて「輪風」という言葉も使い始めている。
早めに出て浜松に向かう。
1.スピードを出さないで我慢する。
2.地形・風・陽当たりで、路面の様子は変わり続ける。我慢して運転。
3.路面温度表示をよく見る。2℃から路面のシャーベットの様子が変わっていくので注意。
4.ブレーキのベタ踏み禁止。様子を見てポンピング。
と初心者コースをやるだけで、我慢の国を味わうことができる。 白川合掌でには「綿帽子の重ね」みたいな棟飾りが、雪の積もり方を模したものだと気付かされた。世界遺産ということで台湾・香港・大陸からの来訪者が大勢。
夏にもたくさん人が来ますが、雪のシーズンが一番。
と言うと
香港には雪がありませんから。素晴らしい景色です。
と流暢な英国式の英語。学校で習った英語でなく、仕事で使っている英語だ。
峠を越えて浜松まで来ると別の国に来たようだ。能登が「我慢国」ならば、遠州は「面白国」だ。
自分だけが想像できる結果を目指して、数十年の研究を続けられるのも「我慢」ではなく「面白い」からだろう。天野君のようにそれがノーベル賞に結びつくこともあるが「やらまいか」という人生を何十年か続けて、何も手にすることなく死んでいくとしても「ああ面白かった。」で良いのダ。(バカボンのパパ式強調法)
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そういえば輪島の飲み屋のカウンターで若者が一人飲んでいた。新潟出身の軍人さんだそうだ。能登半島は、地形からしてどこか人知れぬ山の上にレーダーサイトでもあるのだろう。若者なのにしんみりと飲んでいた。
軍人も「我慢国」に偉い人が多い。死ぬまで我慢をし続けて「ああ幸せだった。」という人でないと務まらないのだろう。空軍の軍人には退職後浜松に住む人も多い。元基地司令のお話聞いたら若い頃「東京急行」へのスクランブルをやっていたそうだ。
2機で迎撃するのだが、向こうが撃つまで撃ってはいけない。2人のうちの1人は我慢したまま死んでゆく、という商売だ。「面白国人」向きではないだろう。
エリック新関は有色人種初の米陸軍参謀総長を務めたが、全軍に「葉隠」を諭したそうだ。ハワイも有色人種にとっては「我慢国」なのかもしれない。イラク戦争の時に「獅子はネズミを殺すにも全力で戦う。」と主張して「ちょいと戦争。」というラムズフェルドと対立し、遺恨を残したそうだ。
米軍の原型は誰でも良いから「悪役」をでっち上げ、煽り立てて先に抜かせ、「抜いたね、」と言いざま殺してしまう、という「西部劇2丁拳銃早打ち主義」なので、草葉の陰で隠忍自重し、そのまま何もなければ「平和でよかった。」と死んでいくのとは、だいぶ違う。米西戦争の観戦武官であった柴五郎将軍が、ハヴァナ攻略を見てあっけにとられたのも、そのあたりだ。
田母神元将軍なぞ郡山出身だそうだが、浜松基地にも居たことがあるそうで、その際に「やらまいか菌」に感染したのかもしれない。
中学校の同級生に莞爾という名前のがおり、後年骨接ぎになったが「石原莞爾と同じ字だな。」といったら、父君が石原将軍の知己を得てよく泊まりに来ており、名前を貰ったのだそうだ。出羽鶴岡の出身だが、石原莞爾なぞ帝国陸軍中の「やらまいか」の筆頭株だ。石原将軍も浜松滞在中に「やらまいか菌」に感染したのかもしれん。
by dehoudai
| 2015-01-12 18:59
| まちづくり
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