2014年 11月 25日
囚われ人 |
臨済宗建長寺派
萬法山帰一寺
伊豆八十八ヶ所霊場第八十番
横道三十三観音霊場第ニ番
へ行ってきた。此処にも輪蔵があると、松崎淨泉寺で聞いたからだった。淨泉寺の輪蔵は文化年間に大工の名工が寄進したものだそうで、幕末明治の車船伝説にも繋がるような気がする。淨泉寺が輪蔵を建てたのならこっちだって、と近所の大工が腕まくりをしたのだろう位に高を括っていたら、大間違いであった。
門前で
和尚様は?
と聞くと、右のご婦人が
作業してますから、上に居ます。
とおっしゃるので、御庫裡様であろう。我が家の愚息どもも静岡市大岩なる臨済寺門前の育ちで、未だにその頃の仲間とはお付き合いをさせてもらっている。 構えからして大違いだ。戦国時代の寺には城の構えのものがある。檀家など寄せ付けず、いざという時には本陣となるのだ。扁額には「海南禅林」とあるのだろうか?私には読めない。 作業衣にゴム長の、第三十一世田中道源老師に案内を乞うと、帰一寺の輪蔵は吉宗代のものだと言うのだ。 弁財天が祀ってある。伊豆で弁財天というと風待ちの船方衆をお慰めして、丸裸にする口だなと言ったら。老師様に睨まれてしまった。 正安3(1301)年、一山一寧国師の創建だとのこと。
1301年といえばマルコポーロの時代だ。マルコは1271年にヴェニスを立ち、1295年に帰国した。ところが3年後には戦争捕虜となり、ヴェニスと交戦状態にあったジェノヴァに幽閉されてしまった。その獄中で述べたのが「東方見聞録」だった。
マルコは見聞を正確に述べたにもかかわらず、内容が
・中国では金貨を紙に変える術がある。
・旅先で紙をもう一度金貨に変えてもらえば良い。
.中国では矢が火を吹いて自分で空を飛んで行く。
・火鼠の皮衣というものがあり、それを着れば火も熱くない。
という当時の先端技術の話だったので、ヨーロッパの未開人が到底信じられないことばかりで、マルコは気違い扱いされ、「嘘百万」と呼ばれるようになってしまった。
我が国では1274年の文永の役、1281年の弘安の役と、2次に渡る元寇を被り「嘘百万」などと笑ってはおれなかった。第三次日中戦争が勃発すれば、日本は地上から消えてしまったかもしれないのだ。
クビライ・カーンの死後も日本侵攻計画は続けられ、正応4(1291)年からは瑠求・薩摩国甑島へ大艦隊が押し寄せている。
そうした中、正安元(1299)年、当時の世界文明の頂点、元帝国から遣わされた、国書奉呈の正使が補陀落山観音寺の住職一山一寧国師だったそうだ。
元帝国が第三次日本侵攻を実施していれば、首と胴が分離してしまったかもしれないが、マルコ・ポーロと同じ「囚われ人」ではありながら、ジェノヴァの野蛮人と違い、元帝国が世界文明の頂点にあることを知悉していた鎌倉幕府は、一山一寧国師に建長寺の住持、南禅寺三世などをお願いしている。
お寺の開山様は、新築工事の現場監督などを、実際にやったお坊さんのお師匠様、という例が多いようなので、この時も建長寺の住職であった一山国師が、高弟をゆかりの地に派遣したのではなかろうか。
三代将軍源実朝も、将軍などヤダ、ということで歌を詠んだり伊豆山大権現への参詣をしていたものが、建保4(1216)年渡宋を思い立って巨大ジャンクを作らせたが、失敗している。 江戸時代になっても帰一寺は粗略には措かれず、開山様の坐像の横には
東照大権現 初代家康
台徳院殿一品大相国公 二代秀忠
大猷院殿贈正一位大相国公 三代家光
文昭院殿贈正一位大相国公 六代家宣
と歴代将軍の位牌が並んでいる。輪蔵の建立が八代吉宗代というから、この時代に何かあったのではなかろうか。思い至るのは海軍、当時の言い方で言えば海賊衆のことだ。紀伊国屋文左衛門が海運で巨万の富を築き、紀州の吉宗公が第八代将軍職を襲職したころ、我が国の海運、裏から言えば海賊衆に、伊豆で何かがあったとしても不思議はない。
この時代の伊豆國、特に江川太郎左衛門の周辺を見れば、何か解るかもしれない。普通代官というと徳川幕府の任命する.150石取り程度の今で言えば出先の所長クラスなのだが、江川家は徳川家の代官ではなく、源頼朝の代官なので、大名よりも格上なのだ。表からは見えなくとも、伊豆國が徳川幕府の海軍の実態かもしれぬ。
江川家は幕末にも海防に奔走し、江戸の前浜にお台場を作った。いまは韮山の反射炉が残るが、それには元寇以来の伝統があるのだ。
島を取ったり、珊瑚を取られたりと、物騒な世相だが、元寇が再びあれば、日中両国の損失は計り知れないものだろう。ここは帰一寺に参詣して、日中友好に尽くした一山国師の話でも聞くが良かろう。
by dehoudai
| 2014-11-25 11:39
| まちづくり
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