2014年 11月 18日
長八の宿 |
松崎まで行ったので、長八の宿を探索してきた。観光案内地図にはつげ義春の「長八の宿」など明示してない。
役場で聞くと「それは「山光荘」と言うのだ。」と教えてくれた。パンフレットには載っていなくて、聞くと教えてくれる、という「案内謝絶」なのが、小技が効いている感じだ。なまこ壁の通りの、港の近くにある。 玄関は昔風の「高級旅館」の構えだ。「営業中につき見学謝絶」みたいな掲示がしてある。それでもつげ義春の漫画を見て、訪ね探して泊まってみたい、という同年輩の好事家はいるだろう。今なら一泊二万円といったところか。
どうも松崎は「与太郎の町」という感じがする。生まれた時から真綿くるみで、苦労したことがなく、遊び暮らして行くうちに手元が寂しくなってゆくような雰囲気。蕎麦屋で蕎麦を食ったら、見事な緑色をした手打ち蕎麦が出てきた。それも「××先生作」の類の器を使っている。
以前は役場の川沿いに「足袋製造販売」という家があった。今は駐車場になっているが、聞くとおばあさんは手慰みに人形を作っていて、望めば頒けてくれるそうだ。 魂消たのは岩科学校の扁額が、太政大臣三条実美だったことだ。どうも明治の初め、伊豆の風待ち湊に洋式帆船が現れた頃の松崎の勢いは、大したものだったのだろう。全国で最も早く繭相場が立ったのは、その時代に次の日に、横浜に入れることが出来た松崎繭だった、という話を聞いたことがある。
しかし松崎の旦那、つまり与太郎が立派に成長したには、もっと古くからの筋書きがあるような気がしてならない。「長八の宿」のじっさんは勝浦辺の生まれというが、北条水軍は鎌倉だの房州にまで出かけていたそうなので、戦国時代からの何やらの筋書きがあるのかもしれない。 以前から気になっていたのは淨泉寺に輪蔵があることだ。文化7(1810)年建立とあるが、これだけのものを建てることができたのは、尋常ならざる経済的裏付けがあったに違いない。
和尚に話を聞いてみたが、その頃小沢伸秀という名工がいて、という事しか分からなかった。別の寺にも輪蔵があるそうなので、やはり松崎と言うのは大変なところだ。
案内表示をよく読むと、小沢信秀は文久2(1861)年掛川城主に建白して、無難車船を建造しただの、慶応3年敦賀から琵琶湖までの運河を計画しただの、慶応4(1868)年東山道官軍鎮撫隊に参加するも、偽勅使に扱われ、3月14日に処刑されたとある。
東海道鉄道開業当時、琵琶湖で使われた鉄道連絡船が我が国連絡線の濫觴、というのを見ても、松崎には近代的舟運に関する情報を知る人がいたのだろう。
車船で思い出すのは、茨城県立歴史館蔵の
水府湊沖江来泊之全圖
文政六癸未之夏狄舶七八艘、、、帆ハ風車ノ如ク四ツノ車ニ、、、風上ニ走リ風下江ハ帆車帆ニ成走ルカ風切ノ様成、、、
と当時の役人が「想定外」を連発していた様がよくわかる。小沢信秀もそうした目撃証言をもとに車船を建造したのだろう。内燃機関というものに思い至らないので、風車で水車を動かすような絵になっている。残念ながら小沢の車船は試験航海で沈没してしまったようだ。
江川太郎左衛門がお台場を作ったのは、嘉永6(1853)年、異人ペロリが江戸前で砲撃訓練をやった後のことだそうだが、江川太郎左衛門の元には北条水軍の裔が温存されていても不思議はない。君沢型はいきなり出たものではなかろう。
しかし幕府には酒井雅楽頭つまり宴会担当と、特高警察の妖怪鳥居耀蔵がおり、お台場建設の遺恨から、海防に奔走する江川一党を蛮社の獄で皆殺しにしてしまったのは残念なことだ。
岩倉具視卿など、貧乏公家で食うに困って、家作を博徒に貸して賭場の上がりで食べていたそうで、そうした育ちが幕末維新の原動力だったような気がするが、どうも幕末明治の海族衆というのも、陸上権力には分からないところが多すぎる。江戸へ上る船は、下田の船見番所で手形を貰わねば観音崎を回ることができない、というと、下田のみが幕府直轄の役所に聞こえてしまう。しかしその背景には「伊豆御代官様」の下に、巨大な海軍機構が整っていたのではなかろうか。
松崎の与太郎変じて旦那衆も、人にはうつけと見せておいて、国運を左右する海族衆のトップシークレットは十分承知だったような気がする。
長八の宿
by dehoudai
| 2014-11-18 12:19
| まちづくり
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