2014年 11月 09日
僕は泣いちっち |
僕の気持を 知りながら
なんで なんで なんで
どうして どうして どうして
東京がそんなに いいんだろう
という1959年の守屋浩の歌に脅迫され、若者たちはぞろぞろと東京へ集められた。この歌を無邪気に歌っていたのは我々小学生ぐらいで、私よりひと回り上の人々はやむにやまれず、だっただろう。55年後、山野を守るために故郷に残された後継者は、脅迫通り他国へ「嫁買」に出かけねばならない。
図は1969年に撮ったものだが、1959年頃には国道1号線がこの木橋を走っていた。文明開化も、産業近代化も、東京を食わせるためにやってきた、というのが地方の暮らしだ。
戦争直後は東京へ行けば餓死しないで済む、という時代だった。
といっても東京で米や野菜が取れたわけではない。田舎にはそうしたものもあっただろうが、東京に集まった労働力に食べ物を届けたのは「担ぎ屋」と呼ばれる人々だった。なんのことはない家尊も復員後、友人に誘われてしばらく「担ぎ屋」をやっていたことがある。
戦災復興は東京に集中し、地方はあきらめ状態で、希望は東京にしかなかった。そうして東京へやってきたところで、誰もが東京で希望に満ちた生活を始められたかというに、産業近代化というエサのおこぼれに預かったのは、一部のエリートだけで、平民は「最暗黒の東京」をうごめくだけだった。そうした「魔都」の日常が
つげ義春 1973.4
には描かれている。「場末」なんてものは現在も、戦後も、明治も、江戸も、あまり変わっていないのだろう。
「ガロ」は長井勝一さんが死ぬと内ゲバをやって分裂してしまったそうだ。どうも私は「徒党」というのが苦手だ。主張が良いことであれ、「徒党」となるとべつの力学が働いてしまう。
新大久保職安通りも、主張というより、徒党と言ったほうが事態を説明しやすいように思える。日本共産党が八代亜紀で人寄せをやったというのは微笑ましいが、執行部がそれを「文化」でくくっているのには吹き出してしまう。
守屋浩が「僕は泣いちっち」と歌った頃、人々が何を考えていたかという参考になりそうなのが松本清張だ。推理小説という形式を取りながら、あの時代に人々がどう暮らしていたか、が丁寧に書き込まれている。
私がもっぱら興味を感じるのは「町並み」なのだが、その向こうに今とは違う「時間と距離」「東京と地方」などが見えてくる。
最近話題の「在◽︎▽権をどーたらいう会」の様な人々は、当時も居たことも描かれている。大方17世紀の「白鞘組」もそうしたものだろう。この国が退化しているのが良く分かるのは、松本清張が光を当てたような「この国のあり方」が既にベストセラーにならないことだ。
松本清張の時代は「爆発的」な産業近代化の時代なのだが、これからの「産業後の時代」は「爆縮」という形でやってくることを南伊豆で実感したことが頭を離れない。
僕は泣いちっち
by dehoudai
| 2014-11-09 11:53
| まちづくり
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