2014年 07月 31日
巨大擁壁 |
谷を進むと巨大なコンクリート擁壁にぶつかる。
等高線を拾うと9mだが、実際に見るとそれ以上に感じられる。 大正6年の地図にはまだこの擁壁は無く、ひとつ西側の夏目次郎左衛門の石碑の裏側の道が姫街道となっている。もともと谷がここで山腹にぶつかり、死んだ人を幽界に帰す「鎮魂の地」という地形になっていたのかもしれない。
いつ頃作られたものだろう。
いつ頃作られたものだろう。
1925(大正14)年 陸軍飛行第7連隊新設。1926(大正15)年 陸軍飛行第7聯隊、立川から移駐
とあるので、このころに飛行隊への道として整備されたのかもしれない。現在の浜松基地滑走路は長さ3,000mだが、継ぎ目なしのコンクリートの一枚板になっているそうだ。そうした軍事技術が応用されていることもあり得る。東滿虎頭要塞の着工が昭和9年とのことで、満州併合前に国内で練習をやっていたのだろうか。
大正6年中根櫻さんの地図を見ると、現在巨大擁壁が作られている辺りで谷筋が左右に分かれ、正面が山腹になっている。
三方原台地の端部の斜面を見ると、斜度はおおむね8/24、13/30、10/26と1/3内外だが、犀ヶ崖両側の斜度は1/1以上だ。
現在の犀ヶ崖の斜面をを地図で地図で拾ってみると、自然地形とは思えない。三方原台地の、何も無い所に家康が「外堀」として掘ったことも考えられたのだが、元々谷筋が山腹に突き当たる、死んだ人を幽界に帰す「鎮魂の地」という地形があったとも考えられる。
それが現在の堀の様な斜面になってしまったのは、何も無い所に掘りを掘ったのではなく、台地端部の緩やかな斜面を、両側から埋めて行ったことも考えられるのだ。大正6年の地図に現在の地図を重ねると、犀ヶ崖南側の地番の境が平地と斜面の継ぎ目だろう。これも最近ではなく、幕藩時代から少しずつ埋められていたことも考えられよう。
重機が無く、少しづつ人力で谷を埋めていた時代には、地震が来たらどうなるか、と言うチェックもそれなりに効いたはずだ。安政の大地震では二の丸にあった「長櫓」が全壊したそうだ。そうした姿を横目で見つつ、少しづつ谷を埋めて行ったのが、現在の1/1勾配なのだろう。
ところが法律というものは個別の事情を配慮すること無く「安全」が全国一律に決められている。「ただし」書きはあるのかもしれないが「大臣特認は面倒だ。」となると、方便がまかり通る。
「危険な斜面の範囲内」に建ち、法に適合する擁壁を作ることもままならぬ、宗円堂の建替えについて「仮設建築物」と言う案が出ているそうだ。
by dehoudai
| 2014-07-31 14:39
| まちづくり
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