2014年 07月 20日
戦場だった |
軍記軍談は、後には民間の娯楽となり、「盆騒動」のネタとなり、更に下っては清水次郎長となるのでありまするが、武士武門にあっては戦史研究であり、軍学の素養であったのであります。
ところが現場においてこれを眺むるに、戦場というものは死屍累々、十里風腥しというもので、とてもじゃないが御目出度い「地域おこしのネタ」向きではないのであります。東照神君の「しかみ」を変造して似ても似つかない「いえやす君」にしてしまったのも、史実からは到底「家康の散歩道」なぞ、有り得ないからなのであります。
信玄が平手監物の首に付けて岐阜の信長へ送った手切狀なぞ
一筆申し達し候、其方種々ことわりをもつて、信玄と縁者に罷り成りたき由申さるるにつき、よんどころなく云々
汝必らす天道に見放され軍神の御罰忽ちに蒙り、手飼の犬などに骨肉を咬み挫かれ身命を空しく失い、末代まで悪名を得ん事、汝信長疑い有るまじく侯。向後信玄二度と其方信長と通じ申すべからざる者也。
といったもので、到底観光ネタにはなりますまい。
大正14年生の義兄は大日本帝国大連陸軍病院の、霊安室の横にあった「0号室」と名付けられた「まだか?」という病室から生還しているので、十里風腥しというのも実感出来たでしょう。
しかし昭和12年生のMさんなど、防空監視所に張ってあった敵機識別表から、「かっこいいなー。」とヒコーキの絵を描き写していたら、スパイ容疑で特高警察に捕まったそうですが、これなど当局がオヤジを締め上げるネタに使っただけでしょう。
昭和4年生のウチのネーチャンは、昭和20年6月18日に日楽へ勤労動員に出かけようとしたら、
駅から行けれんもんで船越の方から行ったら、道端に死んだ人がゴロゴロ積んであった。
そうです。ネーチャンは満州育ちなので、小学校の頃から通学路に死んだ滿人が転がっているのを、見慣れていたのであります。
元亀3年12月23日朝にもこのあたりの道端には、死んだ人がゴロゴロ積んであったことでしょう。
私など遊び場だった防空壕のカビの匂いと、浜松城公園に体育館を造るとき、基礎工事で大量に出て来た焼夷弾の燃えガラから、まだ新しいナパームオイルの匂いがしていたのを覚えているぐらいです。
60年経つとそうして戦争の実相を知る人が段々減り、それと同時に歯止めのない「財政赤字」が暴走を始め「戦争やってチャラ」へと時代が進んでいるようです。
小中一貫校を作るのに「公園用地を元城小の敷地と入れ替えよう。」などと「駅から徒歩10分」式のインチキ不動産業者と化した御出入コンサルには「Genius Loci=地霊」なぞ、メーワクなメーシン以外の何者でもないのでしょう。かくて戦争の記憶は消されて行きます。
三方原合戦拾年後の天徳寺狐合戰なぞも、敗残兵によるゲリラ戦の可能性もあって、十分怪しい。今の人は丸橋忠弥もご存知あるめい。
by dehoudai
| 2014-07-20 15:34
| まちづくり
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