2014年 07月 16日
近藤陣屋への道 |
最初に気付いたのは1990年頃で、一軒づつのおたくの玄関先がきれいに丹精され、羽織袴の侍が現れても不思議のない様な風景だったものが、今見ると荒れ果てて見る影も無かった。
バブルこの方の20年で、日本のまちなみはかなり変わっている。バブル以前には地元で仕事をして、引退後は庭の草取りでもすれば幸せ、という年寄りがそれでもまだいたのだろう。それが20年経つと職場も遠退き、近隣空間に対する住民の依存度が大幅に減り、買うのも食べるのもバイパス沿いの大型店、となってしまったのではなかろうか。
都心からも八百屋と魚屋が消えて、時間になると唯一残されたZazaの地下に年寄りが群れているのと同じだ。
「清水通」周辺は大正の頃「氣賀口」と姫街道を結ぶ繁華街であったのだろうが、それも今では分からない。
氣賀小学校は南側の陣座ヶ谷古墳と対をなして、都田川の河川物流が浜名湖に通ずる喉頸を扼す、古代の戦略重要地点なのだ。いわば氣賀町・引佐町の地政学上の骨格に当たるのだが、こうした地域の成り立ちをきちんと次の世代に伝えているかどうか、気になる。
中川村は律令時代の地名が残る。県下でも最も古い稲作地帯だが、こちらには水田風景が残されている。小学生が学校脇の田んぼにはまっているのは頼もしかった。七夕豪雨で大きな被害が出たが、川が物流の主力だった頃の村の姿が微かに感じられる。
「我が街」に何の愛情も持たぬ、根なし草の様な人々を増が増えたのでは、地域は生き残れないだろう。そうした「地域の魂」の様なものを守る為には、担当者が3年で移動してしまう行政には手も足も出せないのだ。
by dehoudai
| 2014-07-16 15:39
| 浜松の都市伝説
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