2014年 07月 15日
小学校の敷地 |
浜松市内の戦災復興公営住宅には、同潤会青山アパート・代官山アパートにならった松城アパート・亀山アパートから、こうした二戸一棟のものまでが、大量に供給された。質素ながらも「未来」があった頃の日本の空気を感じる。
父上は高等工業出身の技術者で、病身の夫人の為に離れを増築したというから「トトロ」を地で行っていた様なものだ。
あの頃至る所に防空壕の跡があり「危ないから入るな。」としょっちゅう言われる程に、ガキ共の絶好の遊び場だった。鹿谷公園・浜松城公園には昭和30年代の終頃迄、空襲で焼け出され、防空壕で暮らす被災者が見られた。
小学校4年生ぐらいまでは、自分で把握出来る空間というのは、小学校から自宅までくらいであろうから、これが人生の有る部分を成り立たせている。
建物が風景になるには50年くらい掛かる、という言い方からすれば、日本人が子供の頃の風景に恵まれているのは、例外的なことだろう。ローマ時代の建物を普通に使っているヨーロッパの基準からすれば、日本の建物は殆どが仮設建築物だ。住まいは「寓居」であり、人生は仮りのものとなる。
そうした中で小学校の敷地というものは、なかなかにゲニウス・ロキの立ちこめるところがある。
取りあえずは氣賀四つ角から氣賀小学校に至る路地を辿ってみよう。氣賀四つ角はすなわち氣賀関所であり、氣賀小学校はすなわち氣賀近藤家陣屋なので、海坂藩士が辿った様な路地が、今も残されている。更に言えば氣賀近藤家陣屋は古墳の上に築かれているそうだ。同じ様に小学校の敷地が古墳というのは、水窪にもあるとのこと。
そのようにして、多くの人々の人生を作り上げて来たであろう小学校の敷地を、やたらに動かすのは、根なし草の様な「我が街」に何の愛情も持たぬ人々を増やすだけではなかろうか。
by dehoudai
| 2014-07-15 12:37
| まちづくり
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