2014年 07月 07日
犀ケ崖 |
浜松は出世城なので「地霊」もあちこちに多そうだが、その筆頭株が「犀ケ崖」だろう。見ただけでも"Genius Loci"が漂っている。
三方原合戦の際に焼失、寛文8(1668)年一丁ほど南の現在地に移転造営し、時の城主大田備中守をはじめ、代々の城主の崇敬をあつめた。
と記したページもある。とあることと、関連があるのだろうか。国家神道の暴風が吹き荒れた頃だ。
明治7(1874)年浜松県の指示で、三組町の秋葉神社に合併、明治11(1878)年住民の熱意で旧社地に遷座し、今日に至っている。
追分小学校の横には神明宮もあるが、こちらは神社庁のHPに名前も出ていない。
明治政府による国家神道とは別の神社なのかもしれない。
「犀ケ崖」下流には大社教浜松分院もある。新川に架かる橋が「出雲橋」とあることからも、地域住民に受け入れられていたことが分かる。
民俗学方面からは「サイ」は「賽銭」「賽の河原」のように「神に返す」ことを意味していることがあるらしい。この意味からすれば「犀ケ崖」も「死者を神に返す場所」という意味合いがあるのではないだろうか。
現在犀ケ崖とその下流の崖勾配は、市内の台地周辺のどこにも見られず、自然のものとは考えにくい。
下流には「硝煙蔵=火薬庫」があったことが地名から分かる。「栗橋」と言う地名もあるが、幕府の硝煙蔵は、いざという時には上流の堤を切ると水没する仕掛けになっていたことが、東京都北区滝野川の硝煙蔵にも見られる。
「名残町」という旧町名はと消されて、
崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落した、
という荒唐無稽なヨタ話に基づいて「布橋」と変えられてしまった。隣の「亀山町」が、棒屋と佐藤精肉店が組んで始めた、遊園地の名前をとって「鹿谷町」と変えられてしまったのと似ている。それだけこの辺りの地霊を畏れるものがいるのかもしれない。
会田文彬
昭和28年12月
浜松出版社
は「名残町」の地名を築山御前から引いているが「死者を神に返す場所」の方が、住民が好むか否かは別にして、筋が通っている。
by dehoudai
| 2014-07-07 19:46
| 浜松の都市伝説
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