2014年 06月 19日
出世城 |
浜松市役所が出世城ということで、間抜け顔の徳川家康が「目出度、目出度」とやっているキャラクターを売り出しているが、あれは史実をねじ曲げるものあっても、浜松の土地柄を現すものでは無く、市民の共感を得るよりも、浜松城に勤める侍衆の気質を良く表すものだろう。
江戸でも西国のオボッチャマンが、摂政関白太政大臣だけではもの足らず、征夷大将軍として天下に号令したい、とだだをこねている様だが、町奉行は町人からのブーイングを背景に「運動会をやろうにも金が無い。」とぶつくさ言っている。遠州濱松も目出度くない点では似た様なものだ。
徳川家康の出世城であるので、神君江戸へ転出の後は、城主と言っても城代みたいなものだ。「殿御乱心」も無い代わりには、領民よりも西丸の方が気になる、というわけではなかったろうか。
その代表株は浜松侍従越前守忠邦だろう。唐津18万石を放り出し、井上正甫にスキャンダルを仕掛けて浜松8万石へ乗り込んで来たのも、領民を幸せにする為、というより西丸狙いだった事が歴然としている。
江戸時代が曲がりなりにも300年近く続いたのも、神君の御遺訓が「我慢」であったからだ。しかし天保の改革は平民にのみ「我慢」を押し付けた事が、家慶將軍からの御不審書には書かれている。
改革嚴重に仰出されしにも抱らず、その方國許濱松に浪人共多數召抱え置きし事があつた。越前守が長沼流兵学者野澤庸齋以下、撃劍術の達人多數を雇つて、濱松城で兵書を講じ、操練を盛んにして士気を高め、又侍達が長刀を帯びることを奨勵し、ぶつさき羽織を流行させて風紀を振粛したことが贅澤であり、又一つには謀叛の下心と疑はれたのである。
「浪人共多數召抱え」からは、正体不明のオサムライサンが、街を闊歩していた様子がうかがわれるが、
後道牢地續きに、前面のみ門戸を構え、竹矢来をしつらえ之を底無牢と稱す
るものを作ったということからは、汚れ仕事担当の、正体不明のオサムライサンが何をやっても野放し、という治安状態が想像出来る。
出世城が目出度なんてのは、西丸狙いの連中だけで、町人は苛斂誅求に苦しみ、正体不明のオサムライサンに脅かされていたのだ。
ご一新後もあまり事態は変わらず、お出入のコンサルなんてのが、昔で言えば白鞘組に当たるのだろう。
御奉行連にシッポを振って年貢にたかるお出入が多くなりすぎたのがギリシャの財政危機の背景とあるが、似た様なものだ。
戦災復興都市計画事業などといって、50年掛かりの区画整理をやろうにも、住民そっちのけで、建設省から助役を借りて来たのを、市役所幹部は手柄と考えている。自分の頭で考えたりすると、ロクな事は無いので、ただただ記憶力だけを異様に発達させ、上役の顔色をうかがうものが出世する。地下の東照神君もさぞお嘆きの事だろう。
by dehoudai
| 2014-06-19 23:08
| まちづくり
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