2014年 04月 17日
内藤新宿松茸事件 |
図は某夫人による写真を借用
笠をパクリとやるのが正式な食べ方だろう。「私の夫も捨てたもんじゃないわ。」と幸せにふけるうちに、最中なので溶けてしまう、という仕掛けだ。
文化12(1816)年秋の、浜松藩主井上正甫侯内藤新宿松茸事件は、どう考えても水野忠邦によるフレームアップだ。
浜松からも大槻文彦先生の様な大学者が現れて、高尾の吊し切りは真っ赤な噓偽りと喝破したように、正甫公の無念を晴らしてもらいたいものである。
水野忠邦失脚後、浜松には井上正春公が上野館林から戻って来たが、その際木綿を奨励した。遠州木綿に上州の先進技術が加えられたのだろう。
御一新後の「桑茶政策」で、元御直参連は茶原の開拓にも苦労したが、国策による絹ではなく木綿に精を出した者達も居った。桑は「浜行きもの」で外貨を稼いだか知らないが、大日本帝国が海外へ膨張すると、遠州商人は反物を担いで日章旗・旭日旗に付き従った。
反物はやがて広幅となり、担ぐのが大変なので織機の輸出、ということに相成った。染物屋もジャワ更紗など各地に出向いて遠州縞の技術をご伝授した。
第二次大戦によって一切の公共交通機関が破壊されたおり、遠州の職人達は国策による交通機関を頼らず、自転車に陸軍から放出の小型エンジンを付けた。ポンポンの誕生だ。昭和31年には市内にポンポンのブランドメーカーが20数社あったそうだ。
東南アジア初め世界の各地には、戦後の公共交通機関が破壊された頃の日本同様、移動手段は脚で歩くという国が多く、そうした国々で広くポンポンが受け入れられた。アベクンは税金の国内還流に尻を押されて「インフラ輸出」と旗を振るが、道路・鉄道といったインフラの無いところでも使える移動手段の方が、世界の平民の今日の用には足りるのだ。
アベクンが税金を突っ込もうという新幹線・高速道路・原発などの「インフラ輸出」が、どちらかと言えば所得格差の拡大を助長するのに対し、ポンポンは平民による自力所得向上、というオモムキが受け入れられる理由だろう。
「インフラ輸出」は取りすぎて有り余る税金の捨てどころ、こちらはショーバイだ。
ポンポンはやがて4輪化して行くが、その際にも米国の西部開拓史に出て来る、幌馬車の末裔の如きアメ車ではなく、人力車の末裔、リヤカーの末裔である軽トラック、しかも4輪駆動といったものが、幌馬車の真似をする国策とは違う、遠州の職人の作り出した乗り物だ。
ポンポンすなわち原動機付自転車のことを「ホンダ」と呼ぶ国も多い様だが「ホンダもスズキもヤマハも浜松出身で、トヨタも浜名湖の対岸だ。」と言うと、眼が点になってしまう外国人が多い。これも辿れば文化12年秋の浜松藩主井上正甫侯内藤新宿松茸事件に端を発しているとこじつける事が出来る。「塞翁が馬」「風と桶屋」の謂である。
by dehoudai
| 2014-04-17 09:11
| まちづくり
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