2014年 01月 11日
22世紀まで使える家 |
英国ではこれが115年だそうな。ところが人口動態・用途変更などを考慮するとそれぞれ60年、800年になるという。800年前と言えば、イングランドはノルマンディーの属国で、「英国」などと言うもの無かった時代だ。彼の地では国よりも住宅の方が古いのだ。
米国ではなにせ歴史というものが無い国なので「古屋」というだけでお値打ちものであり、資産価値となるので、なかなか壊すものが居ない様だ。サンフランシスコでは1906年の大地震の復興住宅が「ペインテッド・レディーズ」と呼ばれ、貧乏人には手が出ない。
昨年は伊勢で式年遷宮が行なわれたが、あれは20年ごとに行なわれている様だ。大八洲では20年経たぬうちに家を建て替えるものは、神を怖れぬ非国民ということになろう。
もっとも江戸時代には「火事と喧嘩は江戸の華」であって、おおよそ10年に一回は焼け焦げた更地に戻って、あっという間に貧相な借家が建ち並び、武士達はいつまた御国替えがあるやも知れぬと、役宅の玄関に「××寓」と表札を掛けた。
江戸の住まいに較べると、農家住宅の方が余程長持ちして来た様で、浜松の近郷でも、バブルの頃までは、江戸時代の住宅がいくらも残っていた。
ところが既に1970年代から「住宅ブーム」なるものが到来し、全国で郊外住宅地の開発が始まった。1960年代の「高度経済成長」の果実を「モダンハウス」として、庶民が手に入れることが出来るようになったのだ。が、それはそのまま住宅産業の近代化であり「住まい」を「資産」から「耐久消費財」へと変質させるものだった。
一度建てたら三代は住み続けた百姓家の頃とは違い「一世一代」で住宅を建て替えるのが、日本人の人生の目標になってしまったのだ。
ホームローンの期限がすなわち住宅の寿命、ということではなかなか快適な住環境、というわけには行かない。10年で飽きが来て、20年で我慢出来なくなり、30年で再び新たなホームローンの奴隷、という運命だ。
住む人の側から書かれた「住まいの教科書」というのがなかなか目に留まらないのも、住宅地獄を作り出す一因になっている。庶民にとっての「モダンハウス」の原型を成す「住まいのイメージ」は、寿命800年という英国で建てられる「モダンハウス」ではなく、10年で焼けても元が取れる、という江戸の借家だった。
かくてこの国は「住まいは資産ではなく耐久消費財」と言う、世界にも類を見ない住宅の建ち並ぶ国となり、産業廃棄物の2/3が建築廃材、という珍奇な光景が現れた。住む人のための住宅政策が無い代わりに、国民をハウスメーカーの利潤の犠牲にするための住宅政策がまかり通る。
住宅の寿命と言っても、様々な寿命の異なる部材の積み上げである。かっては暮れには障子紙を張替えるに始まって、建替えまでの寿命の組み合わせが「作法」というシステムになっていたが、設備機器の変化に伴い「キッチンを改装しようと思ったら、建替えになってしまった。」ということで、「住まいの知恵」はハウスメーカーのセールスマンのボーナスと化している。
何とかならんかと、10年程前に部材ごとの寿命を考えてみたのが「住宅の寿命を考える」であり、一軒分のスケッチをしてみたのが「22世紀まで使える家」だ。
その後の住宅設計では、様々な形でこうした考察を実作に応用している。
by dehoudai
| 2014-01-11 12:28
| まちづくり
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