2014年 01月 07日
学校か獄舎か |
1993年に大田市へ万博見物に行った事があり、その折に植民地の都市についてちょっと調べてみた。
右下から上中に延びるのが京釜本線、中程から左に延びるのが湖南線なのだ。
湖南線は漢城に向かってではなく、東京に向かって延びており、この鉄路線形自体が既に植民地のものだ。京釜本線の開通は明治38年と、日韓併合より古い。湖南線は大正元年開通。 こちらの図は昭和3年朝鮮総督府/陸地測量部刊一万分一地形圖。当時はその筋のお許しなく、こんなものを持っておれば、不逞鮮人またはその同調者と見なされて、特定秘密保護法で御縄頂戴、刑務所で変な注射を打たれて絶命、なんてこともあったのだ。
駅のまわりには工務事務所と鉄道社宅、駅から北西へ2.5km程の所にあるのが刑務所、西南3km程に有るのが歩兵営。これらが一番立派な施設だ。歩兵営手前の道端が陸軍官舎で、南側に中学校、東側に女学校、さらに東側川沿いの空地は道立病院敷地となっている。病院は無くとも植民地経営は出来るのだ。
川をはさんで病院の北側が小学校、朝鮮人子弟の通う普通学校は駅から1km程北、第二普通学校と商業学校は線路向うである。
後は駅の近くに郡廰、警察署、刑務所の手前に地方法院支廰、歩兵営の手前に憲兵分隊があれば、立派な植民地地方都市の出来上がりだ。
学校に力が入っているのは、昔風の書堂では四書五経しかやらないから、近代科学を教えよう、というだけでなく「天子様のからだです、大事にします鍛えます。」というわけで、自分の頭で考えず、先生の言うことを丸暗記する、良い子を育てるのだ。
いざという時には、隊長さんが「死ね。」と言ったら文句を言わずその通りにする、一番安上がりな兵器が量産出来る。
この時代の朝鮮と、受験塾全盛の今の日本を較べると、文部省だけはあまり変わっていない様な気がする。教育の北朝鮮化が怖い。
「雨降る湖南線」というのは艶歌のナツメロと思う向きが多いだろう。李承晩大統領の御代、湖南線車中で亡くなった対立候補を悼む歌、といっても「イパクサ」といえばPSY同様、ポンチャク歌手だと思っている大方の日本人には解らんか。元々李博士というのは、大統領閣下がそう呼ばれたがっていたらしく、それをおちょくっているのだ。
by dehoudai
| 2014-01-07 15:35
| まちづくり
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Comments(4)
長谷川堯先生はおいらが餓鬼の頃、夏休みの早朝からクワガタやカブトムシを取りに行った秘密の場所の2〜30mくらい真上の造成地に住んでますです。
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dehoudai at 2014-01-08 12:05
うーん、、、「三多摩の壮士」か「現代の偏奇館」か、、、
「八雲立つ」地方の出身のようですね。因みに御自宅は南京下見板張りの白塗りです。
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dehoudai at 2014-01-08 21:10
松平不昧候の御城下に同級生が居るのですが、彼の地ではお茶のお手前が出来ないと、建築の営業が出来ない、と言っていました。まあ県知事公舎の請負をやる様なウチの子ですが。