2013年 12月 29日
須弥山 |
これらは全て低温輸送システムの無かった時代の「名産」だ。
これに対し、右はカレイの煮付けである。カレイの煮付けというと、庶民の総菜だと思われがちだが、これは常磐物の極上「殿様の分」である。しかも浜の船方さんが送ってくれた物だ。現代の低温輸送システムを使えば、酒だの生姜だのと言った「生臭みを消す」工夫は無用だ。
猫翁は魚卵とキモに目が無い。高齢者だがコレステロールがどうたらいう事も無く、幸せに暮らしている。
我国では「豊年満作」というのは「国家安康万民共楽」を言うのであって、自分だけ美味い物を食えば良い、というわけではない。生産者が幸せに暮らしていなければ「豊年満作」とはならないのだ。生産者が幸せに暮らしてこそ、地域独自の食材が成り立つ。
日本食の食材を生み出す「名産」は、八百萬神の国であるからこそ成り立つのであって、西洋三教の様に「宇宙の全ては7日間で神が作った。」などという迷信に迷っていては、成り立たない。一神教は地域独自の価値を踏みつぶし「普遍化」という錦旗をかざして「世界征服」を目指す。
御奉行様連は相も変わらず「大型化・集約化・機械化」が農業近代化だという、日本人が餓死していた頃の、先輩の功績にケチを付けるのが怖さに、諫早湾干拓事業を引っ込める気がない。
水門を閉じた所で、田んぼ一枚が40町歩という米国基準にしなければ、農産物の「普遍化」で勝ち目は無いのには目をつぶっている。有明海の海苔場にしておけば、耕作放棄地も出まいに。亡国の道を引き返す事が出来ない。
干拓をせずとも今ある田んぼを、何故連邦基準の一枚が40町歩に出来ないかというと「御奉行様のお話は大変結構な事なので、どうぞ邪魔にならない所でやっておくんなさいまし。」と、誰もお上を信じていないのだ。
諫早湾の海苔場にサンクレメンテ平原の田んぼをはめてみると、下図の如し。 丹波篠山で伺ったのは「丹波黒豆」の豆を他所へ持って行って、3年種取りして植え続けると「タダの黒豆」になってしまうそうだ。あれは丹波篠山という、地域独自の環境を食べているのであって、遺伝子を食べている訳ではない。モンサントにはこの辺りが解ってナイ。
又屋が北海道からカレイの子供を連れて来て育て「常磐物」と称したのはインチキだとする向きがあったが、食べ物も「氏より育ち」であれば、産地偽装ではなく、立派な「タンク常磐物」ではないか。
普遍的な物に価値が有るのではなく、地域独自の物にこそ価値があるという、八百萬神を尊ぶ事から始めなければ、環境問題は解決しない。
料理本と言うのは「山の手の新婚さん」向けな所が気に食わないのであるが、「生臭みを消す」と言う言葉があふれているのも面白い。酒・醤油・酢・生姜・葱と、生臭みを消すのが和食の真髄だ。
低温輸送システムの無かった時代の、食べ物を偲ぶのも面白いが、昨日の魚が次の日には、全国のダイニングテーブルに上る今日「和食とは美味しい食材を探す事。」という極意を以て、食べ物を振り返るのも面白いだろう。
日本国の国法は米連邦の州法と同じ扱いで、連邦法の下に置かれる、と言うのがTPPの本質ではなかろうか。「普遍化」によって地域独自の物を踏みつぶし「世界征服」の道を辿るのものであるから、和食の敵である。
by dehoudai
| 2013-12-29 11:29
| たべもの
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