2013年 12月 14日
帰郷 |
帰郷
大佛次郎
毎日新聞 昭和22年
角川文庫 昭和27年
どうも日本国は60年程で財政赤字から滅亡を繰り返している様だ。財政赤字の蟻地獄から這い上がれないとなると「戦争やってチャラにしようぜ。」というのがお気軽な発想だ。60年程経つと前回のことは忘れてしまうというのが好都合。
大佛次郎の「帰郷」は、昭和22年の新聞連載なので、國が滅びたときの感慨が良く描かれてゐる。
國亡びて群動息まずさ。確固たる自分の意見で動いてゐる奴があるのか、と思ふ。
國が狭い。それから、人間がだな、貧乏なんだ。貧乏なんだ!夢なんて持つ餘地がないのさ。人の脚を掬って飯を食ふことだけ考へてゐるのだ。情けないがね。
いや、暫くは、うんと無慈悲に日本人の出来の悪さを、つゝき出さなけれアいかん。こいつも手術さ。いゝ加減で、いたはったら、未来のいつにならうが、えんえんと、群動息まずさ。
原子爆弾の基礎になった中間子を世界の學界にさきがけて發見したのが日本人の學者だったのだ。優れた素質の奴はゐるだらうが、それは日本人の標準にはならぬ。根が地面に降りてゐる奴は、すくない。それから始めるのだ。群動、なるほど、何もかもそいつだなあ。根がない草が風次第で搖れ動く。
軍の黙迫があったから戰争に協力したと今になってから云ふのは、さう云へばなるほどそれに温ひないが、人間として卑怯者だ。ただ動いたのだ。氣違ひ染みた強い風に吹かれて動いたのだ。悲しい哉、動くやうに出来てゐたともっと自分で氣がついたら。ところで相も變らず群動だけとはね。いつまでも根が地面に降りない。
どうも悲憤慷慨だ。
手元にある文庫本は、母の本箱から拾い上げたものだろう。大正生まれのモダンガールであったためか、欧米の名作に混じって本書や松本清張の推理小説などが残されていた。松本清張は「帰郷」と同じ様に、戦争で日本国籍を失った人間の眼から見た、日本という國の貌を描いている。
球形の荒野
松本清張
文藝春秋 1963年
大佛次郎は「群動」という言葉を使ったが、こちらはベストセラーを狙ったミステリーという形を取りつつ、そこで描き出されているものは「国家によってしか自己を成り立たせることの出来ない」闇に群動する人々だ。
昨今の「ネット右翼」諸君も同じ様に、姿を隠して群動する人々であろう。他民族を貶めることによってしか日本民族を誇ることが出来ない、という似非民族派も同じ様なものだ。
日本の似非民族派と違うのは臺湾人だろう。中共に依る臺湾人、民国に依る臺湾人、日本に依る臺湾人、ガヤに依る臺湾人の全てが、ひとたびは國を失っている。そうした人々が現在の臺湾を成り立たせているのだが、ゴーマンな人々はそうした臺湾の成り立ちも理解することは出来ないだろう。
朝鮮半島でも人々は國を失ったのだが、臺湾と違い冷戦時代に代理戦争である内戦が戦われた。村人同士が殺しあう、という戦争の実相も、私には想像出来ない。
最近の言葉遣いには「自虐史観」というのもある様だが、これも正しい言葉使いではない。「自虐」ではなく、国家による犯罪に「悲憤慷慨」しているのだ。ところが国家と自分の区別がつかない人々は、それを「自虐」としか思い付かないのだ。
モダンガールであった母と違い、生前の家尊は、國の貌などと言ったことに言及することは無かった。
養蚕学校卒という最終学歴にも関わらず、満州国経済部科長事務取扱いという椅子に座らされて、国家統治機構のナマの姿に翻弄されてしまった彼にしてみれば、感ずる所は多々あっただろう。
しかし45歳のときに生まれた「隠居屋の子」が相手では「こんな小僧にそれを言っても仕方無い。」というところだったのではなかろうか。
もう少し歳が近ければ、鐵の暴風の最前線で仕事をしながら、子供にもそれを必死で伝えようとしただろう。これ又子供に取っては良い迷惑だ。本箱ぐらいが「親の恩」としてはちょうど良い。
「球形の荒野」は先日テレビでやっていた様だが、どんな出来だったかは、見ていない。「帰郷」まで遡ると、伝えなければならないことながら、今の若者にどれだけ伝わるかが心配だ。
by dehoudai
| 2013-12-14 13:23
| ほん
|
Comments(0)