2013年 12月 07日
鬼の城 |
向かいのタバコ屋のおばあさん---と言っても、同級生の母、、、
昔は向かいに自転車屋があって、裏に池んあっただけえが、昭和24年に道路を拡げて、自転車屋は引っ越しただね。
敷地をボーリングしてみると、支持層までは7mほどあり、杭を打つことになったが、見ていると9mの杭が7mまではストンと入ってしまうのだ。城の周辺にはそうした地形が多くあるので、注意しなければならない。
当時霊山には北畠親房が国府を置き、北朝側が海から見れば「鬼の城」と見えたことだろう。織田信長がイスパニアの宣教師に教わって「天守閣」ナルモノを作るまで、日本の城は険阻な地形を利用して、落とし穴などを配したものであった様だ。
静岡県で、基礎工事に削岩機が要る、2m離れるとストンと10m程落ちる、というのは富士山周辺の別荘地に多いので御注意。東京の開発業者さんはそんなこと知ったこっちゃないのだが、買うのも東京人なので、やられてしまう。
後醍醐天皇の皇子、宗良親王は南朝滅亡とともに暦応元(1338)年「奥州宇多の湊へ。」と言い置いて熊野を船出した。船は途中難破して遠州白羽の浜へ流れ着き、親王は井伊谷に籠ったとも、信濃國大河原村へ逃れて信濃の征夷大将軍と名乗ったともされている。
井伊谷には宗良親王の弟、無文元選禅師が方広寺を開いた。禅師に帰依した半僧坊大権現の御開帳が先日あった所だ。川勝静岡県知事か誰かの見立てでは、権現様は色目人であるらしい。
道の様に見える所を馬で駆け抜けようとすると、落とし穴に落ち、そこを近在から駆り集められた雑兵が、竹槍などで兜首を頂く、というのが当時の戦争の実相だ。那須与一が扇の的を射たの、梶原景時が宇治川の先陣を切ったの、などという「武芸者」つまり武「芸者」は殿様の慰みものであって、戦争の本筋とは関係ないのだ。
ところが現代の建築基準法では、崖下に建物を建ててはいけないことになっている。南北朝の頃より800年にわたって、人々がそうして暮らして来たことなど、お上は知ったこっちゃないのだ。
その昔から城跡とされて、建物など建てれば落とし穴に当たることがありそうでも、多摩か八王子の分譲地まがいの造成をして、集団移転で住めと強要する。落とし穴に当たった家ではいい迷惑だ。これも建築基準法では知ったこっちゃないのだ。
あそこは湿気のある場所だから、という言い伝えが地元にあっても、敷地面積と駅まで何分だけで、土地の資産価値が計られる首都圏式が、地方に押し付けられる。震災で被害を被った浦安なぞもその口だ。
なぜそうなってしまうかというに、お上は地元のことなぞ知ったこっちゃ無いのだ。自治体職員にそうした「土地柄」を熟知するものが居ても、霞ヶ関に逆らって裁量しようと思えば角が立つ。地元のことなぞ知らない、霞ヶ関お出入りのコンサルに任せておかないと、交付金が減額されるくらいがオチだ。かくて1,000年以上も掛けて作り出された、地元の暮らしの知恵は消えて行く。
田原藩士渡邊登君(28歳)が、和田倉門改修工事の現場管理をやっていた文政12年から、地方分権というものはちっとも進んでいない。
昨夜は千代田城下田原藩邸の辺りで、素っ町人・どん百姓連が集まって御政道に反対したが「主権在民」というのは羊頭狗肉であって、御奉行連はそんなこと知ったこっちゃないのだ。
縦に住む 御開帳
そうした所には、古来あちこちに岩の崖が聳え、古来人々が家を建てたり、穴を穿って倉庫を作ったりしてきた。松島瑞巌寺の石仏も、そうした龕に収められている。
by dehoudai
| 2013-12-07 15:18
| まちづくり
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