2013年 11月 25日
10年前3 |
佐鳴湖西岸の地区計画は、それでも分譲前という条件の下で何とか形にはなった。その後の地区計画2件は住民の熱意と、市役所担当課の努力で何とかなった。制度運用の始まったところなので「手探り状態」というのも、担当職員にとっては労多く、実りあるものだったのだろう。
次に声の掛かったのは、佐鳴湖西岸の区画整理事業地に隣接した敷地だった。開発業者が病院敷地を地上げしてマンションを建てる、という計画が出された。近隣住民でも特に我慢出来ないと感じたのは、隣接する区画整理事業地内に住む人々だっただろう。
自分の家は現代の厳しい規制基準で、土地を贅沢に使わなければならないのに、通りの反対側では昭和40年代の規制基準のままに「お買い得マンション」が建てられてしまう。これは困ったということで市役所に詰め寄ると「地区計画しかありません。」という返事。景観法施行前の駆け込みたいな側面もあったのだろうか。
最初におうかがいしたおりに感じ、そのままに申し上げたのは
新住民と旧住民が協力すれば、マンションは建たないでしょう。
という点だった。マンション敷地は、東海道新幹線の建設時に、土取り場だったとのこと。当時の開発はトップダウンで、地元の意向などお構い無しだったことがうかがわれる。
雄踏街道は家康公入城以前の東海道往還のひとつだ。幕藩時代にも、東海道五十三次が幕府に寄り添い、外様大名を疲弊させる為の、参勤交代という公共事業で生計を立てていたのに対し、地元民が守って来た道だ。
他所はいざ知らず、浜松の文明開化は国策によってではなく、町人の力で進められた様な所がある。井ノ田堀通船に始まって綿織物などの地場産業は、家康の東海道ではなく、脇往還が舞台だった。雄踏街道沿いの名家は家康入城よりも古い家が多い。
そうした入野村の裏山を、地元の意向お構い無しに、東海道新幹線の土取り場にして宅地開発が行なわれたのだから、原住民の想いや如何にと、重いものが有った。
そうして出来た丘の上のモダンな住宅街が、バブル崩壊とともに今度はマンション業者の餌食になりそうだというのだ。しかし坂の下の原住民にしてみれば、元々が草っ原の山の上で、40年前にお上のお達しで諦めたものであり、何を今更、という思いもあったろう。
そうした積年の遺恨を埋めなければ「住民の意向」というのも、まとまらない。
不動産鑑定士に相談してみた。
マンションが建つことで、土地の資産価値がどれだけ損なわれるか、算定出来る筈だ。
と聞くと、
そんなことはやったことが無いので、思い付かない。
と木で鼻を括った様な返事。不動産鑑定士というのも所詮は地上げ屋の手代の様なものであることが解った。
浜松市でも法の定める所に寄って「都市計画マスタープラン」が定められている。それによると敷地周辺は
低層を基本とした住宅地
とあるので、マンション計画は都市計画法違反ではないかと問うたら
都市マスなんてのは、ハナクソみたいなもんさ。
もたつく間に開発業者はどんどんことを進め、マンションは建ってしまった。後の祭りとは言え、行政の不備を認めさせようということで、建築審査会への審査請求もしてみたのだが、
主文
本審査請求を棄却する
でオシマイであった。主権者は一体誰なのだ、という感じがする。建築審査会といっても、専門委員は皆さん顔見知りの方々だったのであって、主文の後に付け加えられた「付言」というのが、関係者の実感だろう。
しかし国法はそんなことドーデモイイのであって、米国の Neibourhood Design から発想を得たであろう「地区計画」も「国法=教科書」主義の金城鉄壁には歯が立たない。
by dehoudai
| 2013-11-25 15:54
| まちづくり
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