2013年 11月 24日
犬山城 |
水口ということで木曽川には都江堰に倣ってであろう、近代的なダムが出来ており、鯉が悠然と泳いでいる。
天文6(1537)年織田信康公手彫りの犬の彫り物、というのが社宝であるが、まことに立派なお道具をぶら下げており、信康公特に力を入れて掘ったのはその辺りと思われる。
呉服屋の奥座敷には紅殻壁など残っているのも、かっての御用商人の暮らしを思わせる。深呼吸をすると「尾張中納言様御国入」の頃の空気の残りが入って来る。中日新聞が天下の御政道のタイコ持ちを務めないのも、三代将軍のときの遺恨が残っているのでは有るまいか。
国取り物語と言っても、年貢の徴税権の奪い合いと、その為の大河川の改修がその実体であって、「武芸者」と称する男芸者衆に、「チャンバラごっこ」をやらせるのは付け足である。
「上洛」というのは、豊葦原瑞穂國には天が下を統べる「米作りのおじいちゃん」という人が居るので、直接会って「じゃあ君、あの辺の米作ってよ。」と言ってもらうのが目的だ。
犬山は木曽川が山へ掛かる関門に衝たる。義仲君なんていう暴れん坊が山から下りて来て騒ぎになった頃はともかく、家康君が「じゃあ君、米作ってよ、ついでに東北の人外魔境で騒いでいる連中もやっつけてよ。」と頼まれて以来、戦国の世と違って尾張平野の都江堰という役割を務めて来たのだろう。
藩祖成瀬正成公は成瀬正一公の功により城を預かると言うが、正一公の兄正義公の、三方原の合戦での戦功が大きかろう。正義公は旗奉行というから、大日本帝国陸軍でいう連隊旗手みたいなものだったようだ。合戦当時正義公は、本陣を城と見せかけた上で火を放ち、大御所様の身代わりに討ち死にした。
浜松市蜆塚一丁目成瀬谷上の宗源院には正義公の墓所があるが、それ程手入れが行き届いているとは言い難く、苔むしていて地元民が残念がっている。井伊谷なる「井伊家祖御誕生の井戸」では井伊家による年祭が続けられているのを念頭にだ。
帰着し、H君に成瀬谷なる鰻屋の、うな重の出前を御馳走になったのが、画竜点睛であった。幕藩時代より鰻というのは出前で食うのが本格であって、店先で搔き込むのは素人だ。
参拝者には古来その写しが授与されるそうだが、3,500円と高いのと、遠方に送るには壊れそうなので諦めて、普通の安産守りをお頒け頂いた。
「静岡県でもネタには困らんだろうに。」とH君が言うので「東海道筋は食うに困らんのさ。」と答えたのは、以前「東海道22宿」の調査提案をした折、さっぱり地元のノリが悪かったことを述べたまでだ。「新居の関所」くらいになれば、なんとかして世人にご紹介しようと言うのは立派だ。
どの自販機にもショートピースが置いてある。「素性の知れぬタバコ屋の言いなりにはならんぞ。」という紳士方が多いのだろう。
裏通りには観光整備から外れた古いまちなみが残されており、こちらの方がそれらしいたたずまいだ。
小生は観光というよりも地政学的助平根性でまちなみを鑑賞したのであった。
学校の教科書に出て来る「チャンバラごっこ」は、大方がこの図に治まるのではなかろうか。壬申の乱もここが舞台であり、「関ヶ原」が何故「関ヶ原」かも、「伊勢」も、「吉野熊野」も、衛星写真で見ると良く解る。京洛に対する「継体天皇の在所」もこうしてみると興味深い。
by dehoudai
| 2013-11-24 11:12
| まちづくり
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