2013年 11月 20日
20年前 |
静岡県の歴史的建築物・歴史的まちなみ
編集・発行 静岡県都市住宅部建築課
協力 社団法人静岡県建築士会
として公刊されている。さらに東海道400年ということで東海道22宿の調査が行われた。これには調査のみならず、地元建築士によるまちづくり提案を含んでいる。
これに引き続き姫街道と海の東海道の調査も行われた。
都市部ではバブル経済の炎が燃え上がり、都市再開発によって、建築密度は上がり続けていた。
同じ炎は現在も「オリンピック」という形を取って東京を焦がしているが、建築士の中にもそれが住民、あるいは市民・国民の求める未来なのかどうかについては、疑問を抱くものもいた。
しかし大方は建物を建てることが、生業となっている建築士としては、疑問を抱きつつも日々の業務をこなしていた。そんな中で行なわれた歴史的建築物の調査には、建築士会の会員が多く参加し、独自の評価による調査原票は膨大な量になった。
県による調査は終わったが、調査対象となった建物のうち、文化財ではない普通の建物は、その後の20年で消えてしまったものが、半数以上に上るのではないかと思う。
「今のうちに記録しておかなければ。」という思いから、この調査を拡大し、1994年から建築士会浜松支部では建築物だけでなく、周囲の環境も含めて、バブル期の浜名湖の有様を記録しておこう、ということになった。
湖岸の写真を撮るだけでなく、それを「立面図」と称して、同じ縮尺でスケッチに起こす。建築士という職能から、建物と周辺環境を示すコンテクストを、手で拾い出す、という試みだった。 その時制作したパンフレットは下記をご参照頂きたい。
浜名湖の立面図
私は1987年から幾度か米国の住宅事情を見物に出かけ、日本の様な「全国版のハウスメーカー」というものが存在しないことに興味を覚えていた。自動車産業でうまく行った量産技術を、住宅供給にも応用しようと言うものなのだろうが、ちょっと無理があるように思えたのだ。同じ建物を100年に一回改修して住み続ける、というヨーロッパにも、そんなものは当然有り得ない。
West Coast Rundown
自動車の部品点数は数万個、同じものの販売台数は数万台から数百万台であるのに対し、住宅の部品点数は数十万個、同じものの販売件数は全国で数十棟から数百棟なので、量産と言っても大分違う。部品点数数百万個、生産台数数十機から数百機という旅客機・宇宙ロケットは手作りではないか。
1980年代から「HOPE計画」というのがあって、地域に即した住宅建設を進めよう、という話があった。建築士サイドには、このままでは全国版のハウスメーカーによって「建築士と地元工務店・大工は消滅してしまう。」という想いがあり、「HOPE計画」を使えないかという試みがあちこちにあった。
しかし最近のハウスメーカーのテレビコマーシャルを見れば分かる通り、ハウスメーカーは量産技術で成り立っている、というより、テレビにだまされやすい消費者を相手に流通業、というのが実体ではなかろうか。
10年で飽きる 20年で我慢出来ない 30年で建替え
ということで経営が成り立っている様な気がする。日本人はモノとしての寿命が来る前に30年で粗大ゴミ、という住宅に住まわされている。
もっと恐ろしいのは、高齢化・人口減少とともに、ひとつづつの住宅ではなく、住宅地が丸さら姨捨山と化し、産業廃棄物となりつつあることだ。
1996年から、まちづくりコンサルタントをやっている同級生に呼ばれて、福島県相馬郡新地町に地域住宅計画のお手伝いに出かけた。「俺は住宅のことなどさっぱり分からんから。」というわけだ。
人口9,000人程の町でありながら、集落ごとに違う歴史を持ち、集落ごとに特徴をまとめることの出来る住宅が建っていた。同時にそれを全国どこに行っても同じと言う「モダンリビング」が消し去ろうとしていた。大都市の恵まれない環境の中に、無理にでも住もうというデザインが、あかたも「新しいもの・優れたもの」として歓迎されていたのだ。
海あり山あり田園ありという新地町の恵まれた環境が、長い時間をかけて作り出して来た住まい、住宅建築そのものだけでなく「屋敷構え」からは多くのことを学ぶことが出来た。 Sさんのお宅など「領主の館」という趣だ。新地町では家系を辿れば平安時代まで遡るであろう地域の名家が、集落ごとに「屋敷」を構えていた。幕藩時代までは、地域の環境経営に責任を持っていたそのようなエリート層は、明治の地券発行で丸裸にされ、戦後の農地解放で「核家族で自活しろ。」となってしまった。
今回の東北大震災でも集団移転の補助対象が「敷地は100坪まで」とされていることには議論が多い。都市近郊の核家族用マイホームなら100坪は贅沢だが、通勤手段も無く、成人家族数の通勤車と軽トラックの駐車場を取れば、かっての様に
・子供が大きくなったので勉強部屋を建てる ・子供が結婚したので母屋を明け渡して勉強部屋を隠居屋にする ・年寄が死んだら隠居屋を倉庫に使う
という風にして建物を30年x3回程度使い回していたものが、その度に全部壊して新築、となってしまう。我国の産業廃棄物の2/3が建築廃材だと目の敵にする向きもあるが、都市部も田園地帯も十把一絡げにする住宅政策にも一因がありはしないか?
それまで闇雲に進めて来た住宅設計が、このころから「風土」と「都市」という二つの軸に整理されるようになって来た。
by dehoudai
| 2013-11-20 12:21
| まちづくり
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