2013年 11月 15日
よし川清 |
230927
カラスミをくれたKさんはその後白内障で目玉を入れ替え、脳梗塞で不自由な暮らしをしているようだ。
初代よし川清というのは、私の曾祖父で、明治大正期の村芝居のスーパースター(自称)だ。「芳川村の清六」なのでよし川清と名乗ったらしい。二代目が家尊であって、どうも稽古本は彼のものであったようだ。裏表紙に女文字で小さく名前の書いてあるのは、母のものではない。どこぞで大分授業料を取られたのではないかと思う。三代目というのは在所を継いだ甥、と言っても私より一歳年下で、陶芸をやっている。
陶芸なるものも芝居っ気があって、金持ちを上手く乗せる様なところがありはしないか?「旦那ならお分かりでしょうが。」の世界だ。どうもこの「旦那ならお分かりでしょうが。」というのが伝統的な文化の秘密ではないかと思われる。
からすみの到来物があった。しかも極上品。豪華なお食事をした。思い出したのは、以前桃園国際空港で見掛けた光景。免税店街の一角に、如何にも「旦那ならお分かりでしょうが」という店構えのからすみ屋があった。宝石店の様な作りの店に「旦那ならお分かりでしょうが。」と言われると弱い、という紳士淑女が「食べる宝石」を求めて次々と吸い込まれて行くのだった。
それと対照的に、大方は米国人であろう、白人団体客は気持ち悪そうな顔をしてスルーして行くのだ。こちらの旦那衆は丸山大飯店の裏で、玉で出来た大根の彫り物を見に来ただけで「そのままの形をした乾燥魚卵」なんてものは、お分かりではないのだろう。私はカモになる気はないので、顧客の観察をしただけで、スルーであった。
同じ「旦那ならお分かりでしょうが」という店構の店は、ヒースロウ空港の”Caviar House”というのがそうだった。これも同じ「食べる宝石」であるところの、塩蔵魚卵が破天荒な価格で並んでいる。私はそれでも英国みやげ、というわけで「スティルトンの壷(小)」をおそるおそる買って来た。これとて当家の経済から行けば、安い買い物ではない。
到来物のからすみはKさんの自作だ。魚好きが嵩じて仲買人になってしまった様な彼にしてみれば、近代的な商品となったからすみなど、からすみとは認められないのだろう。「ほこほこ」と「ねっとり」の間から魚の卵の香る絶品であった。日頃我らが口にするからすみは、オーブントースターの弱火で、火加減に注意して「ほこほこ」と「ねっとり」を引き出さなければならないのだが、自作のからすみはそのままで絶妙な味がした。
カフェのシェフをやっている息子殿に「食うか?」と聞いたら「大丈夫です。」という返事だった。からすみの如き高級食材には、興味が無いらしいのはそれとして「食べるに及ばない。」と言うところ「大丈夫です。」というのは我々の世代には通じない日本語だ。言葉の世界にも世代が違えば分からない「世代文化」のようなものがある。
「旦那ならお分かりでしょうが」というのは「誰でも分かるよね。」という笑顔を振りまくミッキーマウスとは、正反対のものだろう。「誰でも分かるよね。」というのは「伝統文化」ではなく「大衆文化」と呼ばれるものではなかろうか。
「大衆文化」は世界中どこに行っても受け入れられるという、普遍化を目指すのに対して「この辺の人なら分かるんだが。」という「地域文化」もあるだろう。
平成の合併で、全国では数千棟の「文化の殿堂」が無用の長物になりかねない勢いだ。住民のライフスタイルに立脚しない「先進国の優れた文化を地域に分け与える」という、上から目線のやりかたでは利用率も低かろう。「大衆文化」ではTDL, WSJという本家筋が店を開いている。音楽・美術など欧米の「地域文化」に触れたいものは、現地に行ける時代だ。
団塊の世代の「オヤジバンド」は元気だが、いずれ長唄の様に稽古するものが少なくなるだろう。尾張知多万歳保存会の早川昭夫さんは、はっきりと「消えて行く芸です。」とおっしゃっている。逃げ回っていたのが、とうとう捕まって国指定重要無形民俗文化財ということになってしまったらしい。
それにくらべると「この辺の人なら分かるんだが。」という「地域文化」には世代を超えて受け継がれるものがありそうだ。地域独自の価値観を、世界に通用するように磨くことが、これからの「豊かさ」では重要なカギとなるのではなかろうか。
もうひとつは「手作り」でなくては価値が無いという点だ。自動化が進めば、コンピュータが人間を使って、どんなものでも作り出すことになるだろう。ディズニーも創業者が無くなった後、手作りで作っていたアニメーションを、奴隷制労働に切り替え、さらにコンピュータが人間を使う道を進んで力を無くして行った。
コンピュータが人間を使う、コンピュータが自動的に作る、と言っても、コンピュータが考えている訳ではない。記録されたデータから、条件に従って作動しているだけだ。「教科書通り」と言っても良い。
というわけで既に教科書はコンピュータが記憶していれば良い持代だ。教科書によらければならないものはコンピュータにまかせておき、その分人間は自分の頭で考えることが出来る時代である。
ディズニーと対照的にスタジオジブリでは、コンピュータを鉛筆や絵の具と同じ様に人間が使うことで優れた作品を作り続けている。機械が作らせたものには価値はない。
小型化・分散化・手作り4
by dehoudai
| 2013-11-15 18:06
| まちづくり
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