2013年 11月 14日
小型化・分散化・手作り3 |
「大型化・集約化」よりももっと怖いものが、実は「自動化」なのではなかろうか。ピクサーの映画「ウォーリー」では、大勢の人が暮らす宇宙船、つまり閉じた環境の全てを、最適にコントロールしていたのが、コンピュータであり、その名前が”AUTO”というものだった。
「自動化で楽をしよう。」というのはビル・ゲイツ君がウィンドウズを売りまくった路線だが、実は「人間がコンピュータに使われる」という世界でもある。
「ウォーリー」のテーマである、コンピュータによる「自動化」が、人々を幸せにしない、というのは1970年前後のサブカルチャーの中から生まれた、スティーブ・ジョブス君などの好みだろう。iPhoneに至るアップルの「開発」は、「人々はコンピュータで何をしたいか。」に、その多くが費やされているのだろう。
「自動化」の「自」とは、「私」のことなのか、「コンピュータ」のことなのか、という眼でゲームをみると、面白いことがある。
図の左は「ソリテア」などと呼ばれるトランプの一人遊びだ。カードめくりを自動化している。単純な乱数発生で、得点記録をメモリに入れていたりする。この場合「自動化」の「自」とは「コンピュータ」のことであって、コンピュータが札をめくっているのと同じだ。
右は「オセロ」の対戦相手をコンピュータがやるというもの。こちらはそれまでの打ち手を記憶していて、コンピュータの記憶装置から、次手を出して来るので、同じ間違いをしないと言うもの。この場合「自動化」の「自」とは「私」であって、コンピュータは「私」の打ち手を記憶し、定石で対応する。
このゲームではこうして「自動化」とは「定石」つまり「教科書」のことだという、コンピュータの機能を学習することが出来る。碁・将棋で名人がコンピュータに勝てなくなってしまうのもこれなので、あまり記憶を良くすると可愛くないということか、やらずにおくと、あるいはシステムをヴァージョンアップすると、メモリが消える様だ。
T型フォードで知られる「流れ作業の大量生産」の時代には、自動化が大きな価値を生み出したのだが、そうした生産システムは、プランテーション農業の伝統を受け継いだものであり、生産現場は既に低賃金の奴隷労働を求めて途上国へ拡散している。
米国は建国250年足らず、という若い国であり、異教徒を人間と見なさない奴隷制生産で、経済を成り立たせて来た国だ。「生産の自動化」も、そうした伝統の上に立っている。
これに対して日本は遥かに長い歴史を持っている。1,500年以上前に行なわれた、縄文晩期以来の家族経営による棚田稲作から、大陸伝来の大規模水田稲作への転換が「大八嶋瑞穂國」の社会構造の基底を大きく形作っている。
大陸では尭・舜・禹というから、6,000年程前には「河を治めたものが皇帝になる」ということだったようだ。国家の力で大規模河川の改修を行ない、水田の収量を飛躍的に延ばすという技術は、孔子様の時代には国家システムとして完成していたものだろう。完成されたシステムが我国にもたらされたので、「大事なことは全部教科書に書いてある」という国家の在り方が決まった。
それ以来、教科書の丸暗記おいて、成績の優秀なものが国家の枢要を担う、ということになった。儒教と科挙による国家経営だ。
百姓は50回米を植えて、何回うまく行ったかで一生が決まる。という農業経済の時代には「大事なことは全部教科書に書いてある」というシステムはなかなか上手く機能した。西欧に於ける近代は「教科書に書いてないことを明らかにする」という側面を持っていたので「産業革命」などと呼ばれたが、日本では「外国の教科書を輸入する」ことだったので、「革命」とはならず、それまでの産業・社会システムを「古いもの=遅れたもの=劣ったもの」と見なす「文明開化」として推移した。
東北大震災と、津波によって「大事なことは全部教科書に書いてある」近代化が崩壊してしまった今、これまでと同じ方法で「教科書」の改訂を行なうのではなく「教科書とな何ぞや?」と問い直すことも、選択にひとつだろう。
「教科書の改訂」を目指す人は、井野博満東大名誉教授を始めとする「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」が提起した「東電福島第一の全電源喪失は、津波ではなく地震によるもの」という仮説を検証した方が良かろうと思うのだが、こちらはさっぱりだ。
防潮堤の改築は金になるが、地震によるものであれば、日本の原発は全て廃炉、新規建設も不可能に近くなるからではなかろうか。「教科書」は人々の幸せの為というよりも、国策企業の利益の為にあるようにも思える。
明治の御一新以降、この国でも国家経営の教科書、つまり国法を精緻化し、国民生活のあらゆる場面は「全部教科書に書いてある」というわけで、微に入り細に従って国法が整えられて来た。逆に言えば何をするにも法に従わなければならず、この国では「自由」の「自」は生活者である国民の一人一人ではなく、国家経営の教科書、すなわち「国法」なのだ。
東電事故の後で連日テレビから流された「想定外」という言葉は、「大事なことは全部教科書に書いてある」という国家経営が破綻したことを現していたのだが、これが国民にちゃんと認識されているようには見えない。
ソニーの井深大さんが「日本企業は世界の最先端にあるが、日本の行政は50前のことをしている。」と言ったのはそういうことなのだ。企業は最先端を走らなければ存続出来ないが、行政は全部教科書に書いてあることしか出来ないのだ。
したがって「滅私奉公」に適した人「自分が無く」「教科書通り」という人が出世する仕掛けになっている。「自分」がある人は30代で霞ヶ関をスピンアウトするしか無いのだ。我国で「責任」というのが、不都合があった時に、切腹して不都合をうやむやにすることもこれによる。諸外国の信用を、なかなか勝ち得ないのも切腹式の責任によるものだろう。
東電事故で「大事なことは全部教科書に書いてある」という近代科学が破綻した今、「人間が教科書を使う」のでなく「人間が教科書に使われる」という、映画「ウォーリー」に描かれた、コンピュータによる自動化も、見直すチャンスではなかろうか。
小型化・分散化・手作り3
by dehoudai
| 2013-11-14 02:06
| まちづくり
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