三河の国へ行って来た。隣国から遠江を見ると、どう見えるかを確かめてみたかったのだ。ここは湖西市岡崎の坂下から、三河へ通じる道を眺めたところ。
坂を上ると「新所ノ原」。国境には湖西連峰の端に当たる立岩が見える。二川の旧道には昔ながらの通り沿い景観が残っていて、なかなか雰囲気がある。というか、現在よりも幕藩時代の「国境の宿」の頃の方が、重要性があったのだろう。
面白かったのは助郷の配置図。
二川・白須賀・新居と、宿場の西側の村々が指定されている。幕藩時代の参勤交代は軍装で征夷大将軍の幕府、つまり東北原住民征服作戦総司令部へ、行軍演習をしながら参ずるものなので、助郷も宿場から同心円状に拡がるのではなく「臨兵闘者皆陣烈在前」で、敵に向かって本陣先頭なのではなかろうか。遠州に入ると「敵国」ではなくなってしまうので、あまり「臨兵闘者皆陣烈在前」では無い様な気がする。
本陣では
川瀬巴水の展示をしていた。本題とは関係ないが、本物を見ると新たな感動のあるものが数点。今回気付いたのは「吉田の雪晴」の、朝日のほんわりしているところ。本物を見ると冬の朝日の暖かさが良く表現されていて、それによって周辺の空気の冷たさが伝わって来る。これは印刷で見てもなかなか分からない。
新所原の辺り、その昔は人の住むところではなかったという人もいる。現在では蔬菜の生産などが盛んだ。三河から帰って辺りを見ると、近江の辺りの景色に、似ているのではないかと想像される。しかし「三河」というのは「河が三つもある」のではなく、「河が三つしか無い」様なところがあり、湖西市にも天竜川の様な大河は無い。旱魃・洪水にも悩まされたことだろう。
1890年、ここを突っ切って東海道鉄道が開通した。
丘をブチ割り、
田んぼをせき止めてだ。氷河期からの安定した地形に、文明開化・殖産興業の津波が押し寄せたのだ。二川本陣の裏手には東海道本線と東海道新幹線が並走している。
家康の東海道は潮見坂から太平洋にジャンプするという、それなりに優れたデザインなのだが、400年前も現代も、こちらの方が物資輸送路としての「技術的合理性」を持っているのかもしれない。
丘の上は地盤が固まっている、というわけで企業進出が続き、丘の上には送電塔が並び、
山間の、昔は鄙びた田舎道だったであろうところにも、交通渋滞が現出する。
長い間、旱魃・洪水に悩まされながら、年貢を納めることを仕法として来た地域住民に取っては、文明開化・殖産興業そのものが「無法の仕法」と考える向きもあろう。
そうした「無法者」の中から、世界企業がいくつも生まれているのだが、無法者達にしてみれば、湖西市は「いつまでも変わらない故郷」であり続けるのだろう。