2013年 11月 03日
講座と高座 |
村はひっそりとして人気が無い。アンパンマンだと子供が集まるのだろうが、連休で遊園地か、海外旅行か。
浜名湖の成り立ちも概ね似た様なもので、砂洲の内側に五島より大きく、潟湖が拡がっている所が違う。武田勝頼の高天神城が落ちた頃には、白須賀まで同じ様な地形が連なって居たのだろうか。
安政の大地震の折には、浜松御城内では「長櫓が全壊」だったそうだが、西島のお寺に被害があったのと対照的に、大昌寺には大きな被害が無かったそうだ。津波が天竜河口からは大きく押し寄せたのに対し、馬込河口は狭かった為だろうか?
それも海中に砂洲が発達していた為だろう。今後の被害を小さくする為には砂丘が大事、となると水の代わりにダムに蓄えられた膨大な土砂を、これからどうやって海岸に運ぶかかが課題だろう。
昭和の初め頃まで、大海に出ずとも水路沿いに、掛塚から入野に達することが出来たそうだ。源太夫堀の様な水路は、鉄道以前の重要な物資輸送路だっただろう。
江戸時代の東海道今切の渡しも、現在で言えば新幹線北側に当たる、砂洲の内側を通しており、弁天島の彼方は「大海」と考えられていた様だ。広重の「今切の渡し」に見える「大海」の中にも、砂洲が連なっていたと考えずばならず、興味は尽きない
奈良時代の東海道は橋本宿と、国府を直線で結んでいたとも考えられるそうだ。そうであれば頭陀寺の「松下屋敷」は官道に面していたのかもしれない。図中の「条里制遺構」の研究がこれから進めば、その辺りが明らかになることだろう。
住まいは十条だてから、江戸時代には本郷兼安までが江戸の内だったが、御一新でもって「江戸の下町」が、難民と化して寄せて来た所があの辺で、まあ大川の河原だから、芸人にゃ住みやすい所だろう。今じゃ大川も岩渕までは江戸の内だ。
滝野川というのは石神井川が、元は板橋から千駄木を通って、不忍池へ落ちていたのを、家康が王子の山をぶち割って大川へ落としたので、滝が出来たのを言うそうだ。
滝野川の紅葉小学校は、元は確か醸造試験場ではなかろうか。さらにたぐれば幕府の硝煙蔵で、どこぞの堰を切れば、いざという時に水浸しになる仕掛けだ。
浜松でも同じ様な仕掛けが賽ヶ崖下の栗橋だと思われる。硝煙蔵が下にあったが、今は「勤労者共済会館かなんぞになっている。
by dehoudai
| 2013-11-03 12:35
| まちづくり
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