2013年 11月 01日
停車場 |
今では町内会長などなさって「じいじ」も良いとこだ。聞けば何のことは無い、小学校中学校は小生と同じく、浜松市の中心部の育ちであって。御母堂の在所がこの辺りとのこと。
御父上は漢方の医家に生まれ、15歳の時に近代医学を志して故郷を離れたものの、戦争で志ならず。そのまま「生きる為には何でも。」という時代に突入してしまったそうだ。
R君の縁者で、Kさんという同級の女の子は、怖くなかったので、中学の時にも普通に話が出来た。お子さんが薬科に進まれたとのことで、漢方医家の家門を受け継いでいるのだろう。近代西方と違い東方では、医者は単なる薬屋の販売員に過ぎず、薬屋の前の道端で、易者と同じ見台を据えて営業していたと言うから、医家と言えば薬家ということになる。
R君の御父上がパチンコ店をやっていた頃の、停車場の廻りは、漁師町育ちの私などから見ると、大変な都会で、善悪ひっくるめてなんでもあり、という雰囲気を漂わせていた。
駅前の喫茶店にはあの頃の空気が漂っていた。中学3年生の時、私は12組、R君は13組だった。R君は知らなかったが、体育の着替えのとき、男子は12組の教室、女子は13組の教室で着替えをしたので、あるとき悪ガキが、女子の着替えを覗こうと、人気の無い頃を狙って、ドライバーで木造校舎の壁に穴を明けておき、次の体育時間に覗いてみたら、しっかり向こう側に紙が張ってあった。
これが1964年のことなので「所得倍増計画」がフルスィングに入った頃だ。産業近代化という、三内丸山から勘定すると、6,500年以上の日本の歴史の中で、最も大きな変化を日本が体験した時代に育った我々には、周りの人をウルトラコンサバティブと見る癖があるのかもしれない。
R君も今時の流行歌はダメで、1960年代の音楽を楽しんでいるそうだ。「町の未来を考える」などという時には、年寄が指図をするのでなく、若者の考えを年寄が補う、というのが良いのだろう。
新国立競技場の騒ぎなど見ていると「バブルボケ」ではなく「団塊ボケ」というのもある様な気もして来る。 あのころ
しばらく前に駅周辺の再開発をやったのだが「町人の力で開発を仕切る」という所までは行かず、様々な議論があったものの、結局は御奉行様のもって来た原案ーと言っても、御奉行様にたかりついた、他所者の考えた出来合の計画が、押し通ってしまったそうだ。
「御奉行様のお考えは大変結構な話なので、どうか邪魔になんねえ所でやってくんねえ。」というわけで、素っ町人も車で通り過ぎる、吹きさらしの駅前は、冬になると寒そうだ。
ホンダも、ヤマハも、スズキも、トヨタも皆浜名湖の出だよ。というとびっくりする他国人が多い。ウルトラコンサバティブというのは「困ってない」ということだ。志をもって故郷を離れた縁者が、故郷を困らないように、変わらず帰れる故郷として、残しておいてくれている、ということもあるだろう。
「江戸前」などと呼ばれる魚食文化は、日本が世界に誇るべきものだろうが、河口汽水域の水産物の上に築かれた食膳を、浜松在城当時の家康に献上したのは、湖西市入出湊であり、「江戸前」の本家はこの地と言って良い。
先日は市内某所でコハダの「新子」を御馳走になった。「江戸前」の寿司の頂点と言っても良い「新子」は「寿司の盆栽」とも言うべきものだが、築地に一番乗りをするのは浜名湖産なのだそうだ。
その「江戸前」の本家とも言うべき浜名湖でも、水質汚染が深刻だ。1960年代の様なppmレヴェルの重金属汚染には、対策がとられるようになったが、VOC汚染は汚染源が生活排水であり、濃度がppbレヴェルという厄介なもので、世界中の生活隣接水圏で、汚染が憂慮されている。
日本の魚食文化の故郷である汽水域は、生物多様性に最も富むと同時に、人間にとっても暮らしやすい所である為、水質汚染が進行せざるをえない水域でもある。
T君に
浜名湖が昔の様にきれいにならんものか?と問うたら、
昔の様に誰も自動車に載らず、電気も使わなければね。というのが答えであった。
by dehoudai
| 2013-11-01 19:06
| はまなこ
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