2013年 10月 18日
有時自決 |
沸る滅敵の血潮
けふ出陣學徒壮行大會
21日朝、秋深む明治神宮外苑競技場、全日本の學徒が多年武技を練り、技を競ったこの聖域に”壮行の祭典”は世紀の感激をもつて擧行された……『文部省主催出陣學徒壮行大會』その名は平凡である、だがこの朝外苑競技場に沸き上がった若人の感激は恐らくは當競技場の歴史始まって以来の高さと強さをもって奔騰したのであった、まこと國を擧げて敵を撃つ決戦の秋、大君に召されて戦ひの庭に出て征った若人の力と意氣はこゝに結集し、送る國民の赤誠、またこゝに万斛の涙となって奔つたのである。
この朝午前8時、”出陣學徒東京帝大以下、神奈川、千葉、埼玉縣下77校○○名は執銃、帯劍、巻脚絆の武装も颯爽と神宮外苑の落ち葉を踏んで、それヾヽ所定の位置に結集、送る學徒107校6万5千名は早くも観覧席を埋めつくした。 云々
進め悠久大義の道
敵英米學徒を壓倒せよ
首相訓示
茲に明治神宮外苑の聖域に追いて、征途に上がらんとする學徒諸君の壮容に接し、所懐を申述ぶる機會を得ましたることは私の最も欣快とする所である。
以上朝日新聞昭和18年10月21日夕刊1面より
東条英機さんは「ゴミ漁り」で有名な通り「他者を尊重」あるいは「他者を信頼」する能力に欠けていた様だ。太平洋戦争末期には大臣を6つも兼任していた、というのもその所為だろう。そのくせ米国などの煽りには引っかかる、都合のよい人が都合のよい時に出て来たものだ。
この演説も、ご主人様の顔色をうかがうパシリが書いて、手柄にしたのだろう。若者相手に「死ね」という恐喝は分かるが、それ以上の誠が見えない。
同じ紙面には
神宮外苑での冷たく悲しい雨にぬれた人形行進の後、学徒動員によって、春樹おじさんは東京帝国大学哲学科から土浦航空隊に入隊。昭和20年春特別攻撃隊に志願する。
西谷大尉は、白木の箱に入ってが帰宅したが、中には「遺骨」と書かれた紙が入っていただけだった。
当地の航空隊では週末が運動会ということで、西谷春樹大尉の後輩が練習に励んでいる。
本日義兄の通夜
義兄は興安嶺にあった農場の、現地責任者をしていた身内を頼って渡満した。「広大な牧場」というのが、渡満前の大陸のイメージだった様だ。しかし配属されたのは鞍山にほど近い、海城から山を分け入ったタングステン鉱山で、彼はここで家尊と出会い、終戦の混乱時に長女を守るため、妻として託される。
御父君は震災まで、鎌倉で歯科医院を開業していたそうで、震災前大正帝不時の歯痛に御軫念あそばされ、御召しに応じて夜間応急処置を施したことがあったそうだ。従六位の位が無かったので、これは非公式である。
兄の応召前の写真を見ても、馬糞の匂いなど似合わない、いかにも娘達の憧れの的に似つかわしい、シティボーイだったことがうかがわれる。それが大連陸軍病院零号室(霊安室の隣)から生還してきた時には、「歩く骸骨」になっていた。
自決
有事自決2
けふ出陣學徒壮行大會
21日朝、秋深む明治神宮外苑競技場、全日本の學徒が多年武技を練り、技を競ったこの聖域に”壮行の祭典”は世紀の感激をもつて擧行された……『文部省主催出陣學徒壮行大會』その名は平凡である、だがこの朝外苑競技場に沸き上がった若人の感激は恐らくは當競技場の歴史始まって以来の高さと強さをもって奔騰したのであった、まこと國を擧げて敵を撃つ決戦の秋、大君に召されて戦ひの庭に出て征った若人の力と意氣はこゝに結集し、送る國民の赤誠、またこゝに万斛の涙となって奔つたのである。
進め悠久大義の道
敵英米學徒を壓倒せよ
首相訓示
茲に明治神宮外苑の聖域に追いて、征途に上がらんとする學徒諸君の壮容に接し、所懐を申述ぶる機會を得ましたることは私の最も欣快とする所である。
嘗て藤田東湖先生が正氣の歌を賦して、その劈頭に「天地正大の氣、粹然として神州に鍾まる」と申されたのである、只今諸君の前に立ち親しく相見えて私は神州の正氣粛然として今茲に集結せられて居るのを感ずるものである、諸君は胸中深く既に決する所あり、腕を撫して國難に赴く烈々たる氣魄将に旺なるものがあるのを私は諸君の輝く眸に充分御察しすることが出来るのである。若き諸君は今日まで、皇國未曾有の一大試練期に直面しながら、なほ未だ学窓に止まり、鬱勃たる報國挺身の決意躍動して抑え難きものがあったことと存ずるのである、然るに今や皇国は三千年来の国運を決する極めて重大なる時局に直面し、緊迫せる内外の情勢は一日半日をも忽せにすることを許さないのである、一億同胞がことごとく戰闘配置に就き、従来の行掛りを捨て身を挺して各々その全力を盡くし、以て國難を克服すべき総力決戰の時機が正に到来したのである、御國の若人たる諸君が、勇躍學窓より征途に就き、祖先の遺風を昂揚し仇なす敵を撃滅して皇運を扶翼し奉るの日は來たのである、大東亜10億の民を、道徳に基づいてその本然の姿に復帰せしめるために壮途に上るの日は來たのである、私はこヽに衷心よりその門出を御祝ひ申上げる次第である、素より敵米英においても、諸君と同じく幾多の若き學徒が戰場に立って居るのである、諸君は彼等と戰場に相対し氣魄においても、戰闘力においても必ずや彼等を壓倒すべきことを私は信じて疑はざるものである
申すまでもなく、諸君のその燃え上がる魂その若き肉体その清新なる血潮全て是れ御國の大御宝なのである、この一切を大君の御為に捧げ奉るは皇國に生を享けたる諸君の進むべき只一つの途である、諸君が悠久の大義に生きる唯一の途なのである、諸君の門出の尊厳なる所以は実に茲に存するのである、諸君の光榮ある今日の門出に際し、われわれの祖先がわが子の初陣に當り、一家一門打揃って祝ひ送ったのと同様の心持をもってわれわれ一億同胞は心から敬意と感謝とをもって諸君の壮途を祝ひ送らんとするものである。願はくば、青年學徒諸君、私は諸君が昭和の御代における青年學徒の不抜なる意氣と必勝の信念とをもって護國の重責を全うし、後世に長く日本の光輝ある傅統を残されんことを諸君に期待しかつこれを確信するものである、而して我々諸君の先輩も、亦諸君と共に一切を捧げて皇國興隆の礎石足らんことを深く心に期してゐるものである、先人の歌に曰く「海鹽波、ながるるはきみ、皇國と、おもひて行かね、ますらをの伴」と、懸軍万里、御稜威を仰ぎ奉りて皇道宣布の大御戦に参加の光栄を荷なわるる諸君が、必ずや其の責任を全うせられんことを、切に祈念して諸君に対する私の壮行の辞と致す次第である
以上朝日新聞昭和18年10月21日夕刊1面より
東条英機さんは「ゴミ漁り」で有名な通り「他者を尊重」あるいは「他者を信頼」する能力に欠けていた様だ。太平洋戦争末期には大臣を6つも兼任していた、というのもその所為だろう。そのくせ米国などの煽りには引っかかる、都合のよい人が都合のよい時に出て来たものだ。
この演説も、ご主人様の顔色をうかがうパシリが書いて、手柄にしたのだろう。若者相手に「死ね」という恐喝は分かるが、それ以上の誠が見えない。
同じ紙面には
薯一個の買い出しも完封と言った見出しが並んでおり、庶民にとって戦争など「お上が勝手にやっていること」に過ぎず「食べ物に苦労するだけの迷惑」と考える向きもあったことをうかがわせる。腹が減るだけならまだしも「諸君は胸中深く既に決する所あり」などと勝手に決めつけて「隊長さんが死ねと言ったら、文句を言わずに死ね。」と言われては大迷惑であるのである。
千葉県であすから現場取引に斷
野菜登録期間變る
帝都へ大衆魚を
神宮外苑での冷たく悲しい雨にぬれた人形行進の後、学徒動員によって、春樹おじさんは東京帝国大学哲学科から土浦航空隊に入隊。昭和20年春特別攻撃隊に志願する。
戦死すると二階級特進出来るので、恩給が増えます。というのは若者らしい照れ隠しだが、
殆どの戦死は「殺すか殺されるか」という、偶然の上に成り立つ出たとこ勝負、半分は「他決」なのだが、特攻隊だけは「確実な戦死」つまり純粋な「自決」だ。というレトリックを組み立てている。海軍特攻の長である宇垣纏の「翌日特攻」も、「敵艦へ突入」ではない様でもあり、同じ様にも読める。
西谷大尉は、白木の箱に入ってが帰宅したが、中には「遺骨」と書かれた紙が入っていただけだった。
当地の航空隊では週末が運動会ということで、西谷春樹大尉の後輩が練習に励んでいる。
本日義兄の通夜
義兄は興安嶺にあった農場の、現地責任者をしていた身内を頼って渡満した。「広大な牧場」というのが、渡満前の大陸のイメージだった様だ。しかし配属されたのは鞍山にほど近い、海城から山を分け入ったタングステン鉱山で、彼はここで家尊と出会い、終戦の混乱時に長女を守るため、妻として託される。
御父君は震災まで、鎌倉で歯科医院を開業していたそうで、震災前大正帝不時の歯痛に御軫念あそばされ、御召しに応じて夜間応急処置を施したことがあったそうだ。従六位の位が無かったので、これは非公式である。
兄の応召前の写真を見ても、馬糞の匂いなど似合わない、いかにも娘達の憧れの的に似つかわしい、シティボーイだったことがうかがわれる。それが大連陸軍病院零号室(霊安室の隣)から生還してきた時には、「歩く骸骨」になっていた。
自決
有事自決2
by dehoudai
| 2013-10-18 12:31
| ほん
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