2013年 10月 14日
傾城阿波鳴門 |
家康は関ヶ原で東軍に着いた蜂須賀家に、阿波一国を預からせた。これは蜂須賀家が木曾三川の水運を司っていたからではなかろうか。陸上権力は年貢の奪い合いには慣れているが、船方衆には疎い。難波津を出入りする米に眼を光らせるのは、そうした船方衆を束ねる人物でなければならなかった筈だ。
鳴門の瀬戸も並の役人では、取り締まることは出来なかっただろう。阿波水軍と言っても、チャンバラごっこではなく、江戸時代の海運業の取締が、存在意義だったのではなかろうか。忠臣蔵も清盛以来播磨灘の海運業が握っていた利権が、「五万石でも岡崎様は、城の下まで船が着く」という三河に簒奪されたのが底流、と考えれば説明が着く。
徳島城は面白い城だ。城と言っても船見台だろう。天守閣は無く、少し下がった「二の丸」と称する平地に「天守閣」があったというが、船見台の事務所という趣だ。巨石を積んで権威を誇る、というより、実用本意の小石積みだ。
by dehoudai
| 2013-10-14 16:29
| まちづくり
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