2013年 10月 02日
春画 |
The Independent紙でも、西欧人が隠すべきものとして、美術世界では「ほのめかし」に終始していた性行為を、日本人が生命の讃歌として、膨大なエネルギーを費やして、数知れぬ春画の銘品を残しているのに驚嘆している。
しかしここでも彼らは肝腎なところを見逃している。キリスト教がセックスを「家畜と同じ繁殖監理」の対象としていたのに対し、神仏は立川流などの例外を除き、
女から声を掛けん方が良い。というぐらいで、性に立ち入ることが少なかったのだ。
キリスト教の結婚式での「新郎新婦は会衆の前で接吻しなさい。」というのは省略形で、晩餐の後、初夜に父母・牧師が立ち会って首尾を見届けるのが本格、というのを塩野七生さんが「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」で描写している。
そこの子羊君は、この子羊ちゃんにまたがりなさい。という統一教会の合同結婚式は、キリスト教の「家畜と同じ繁殖監理」を厳密に行なっているのだ。
江戸時代までは武士に限られていて、心中ものを量産した家督相続を、明治政府は全国民に拡げたが、そこでの「純潔教育」たるや
天子様のからだです、大事にします鍛えます。というもので
隊長さんが死ねと言ったら、自分の頭で考えずに、言われた通りに死になさい。という国民皆兵を支えるものだった。
富国強兵国民皆兵で国家に奪われるまで、日本では自分の身体は自分のものだった。宮本常一の「土佐源氏」は、ご婦人方の慰みもの、という一生を送った老爺の聞き書きだが、お上が「天子様のからだです」とやる前の、田舎の子供の暮らしが面白かった。
月の障りが始まったらややが出来るから、まらをほとに入れてはいけない。というのは生理が始まる前に学習していたのだ。
男女は共に性的快感を与え合い受けることが出来る。なんていうユネスコの性教育ガイドラインは、当時の子供にとっては年かさの子供から教わる常識だった。
多くの少年少女は思春期に自慰を始める。
父無し子というのもあったが、逆の例が確か落語にあった様な気がする。裏長屋の人気者に子が出来て、一同期待のうちに無事子供が生まれるのだが、長屋の若者全員が「父親」を名乗り出て、子供の奪い合いを演じるのだ。手足を引っ張ったら子供がちぎれてしまう、御隠居が中に入り仲裁を付ける。
どれどれ、かわいい子じゃ。
どうも頭の形は次郎吉に似ておるな、
手の長いところは徳松の子供の頃にそっくりじゃ、
足の指は与作と同じだな、
鼻は勘作のものじゃ。
どうもこれは誰か一人の種というのでなく、お前ら一同の合作だろう。
奪い合いをせんで、皆で仲良く育てるが良い。
キリスト教の宗教改革では、なにぶんキリストが父無し子であり、宇宙の全ては7日間で創造主が作った、という迷信に基づくものなので、プロテスタントも英国国教会も「家畜と同じ繁殖監理」というセックスを「生命の讃歌」として改革出来なかったのだ。
信心の薄れた今、同性婚など結婚の価値観が崩壊しつつある様だが、仏教国では元々「子が出来たら父母の姓名を届ける」というだけの国もある様だ。
「父無し子」でなく「一同の子」という話は柳橋新誌にも出てきたが、それがオリジナルなのか、そういう落語があったのか、さらに判然としない。
210928
春画が西欧に紹介されたとき、
日本の男子の陽物はあんなに巨大なのか。
と皆驚嘆したようだ。さて来てみると大方は標準サイズなので、
なーんだ。
というところに落ち着いて、あれは浮世絵の誇張なのだと気がついた。そこで議論はオシマイで、なぜ誇張しなければならなかったのかは解明されないままではなかろうか。
思うに世の女子はえっち大好きな子でも、子供が産まれると子供に全てのエネルギーを注ぎこむ、という人が多いのではなかろうか。亭主はほったらかしだ。そこである浮世絵師は、子供ばかりが御大事なのは、生まれ出る時の頭のサイズが、問題なのではなかろうか考えたかもしれない。
江戸時代は乳幼児死亡率も高かっただろうから、出産時に死ぬ人もあっただろう。命懸けで出産するときには
死にんす、死にんす、
というものもあっただろう。そこまでして子供を産むのは頭が大きいからで、おのれの陽物のサイズが子供の頭ぐらいあったら、いつでも死ぬほど気持ちよくさせてあげられる。というのが子供の頭サイズの陽物が描かれた理由ではなかろうか。
時は移り世は変わり、男子一人が働いても一家を食べさせることはできない、というわけで共働きになり、女子の経済的人格も認められる様になった。しかし
出来ちゃったのでめんどくさいから殺した。
駐車場の車に寝かしておいたら、パチンコやってる間に干からびて死んじゃった。
というのはいただけない。
by dehoudai
| 2013-10-02 12:03
| にゅーす
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