2013年 08月 20日
無くなったこと |
無くなったこと
吉田謹治
吉田さんは一条村の専業農家。一条竹の子村の向かいの家だそうだ。昭和24年生の私は小学校5年生まで舞阪町で育ったので、概ね同じ時間を生きている。
しかし舞阪町が東海道線の駅を持つ古来の海道筋、明治時代からの観光地であり、漁業という基幹産業もあったのに対し、南伊豆町は静岡県でも「地の果て」だ。舞阪では「文明開化」は頼みもしないのに、ぼたもちの如く上から降って来たが、伊豆では北条・頼朝の時代から下田船見御番所まで続いた、昔日の繁栄が「文明開化」特に東海道鉄道の開通で奪われたのだ。明治の一時期、帆船がもたらした「松崎繭」の繁栄が最後の栄光だろう。
上から目線で見れば、1961年伊豆急開通によって「これからは「土人が裸で踊りを踊」れば、食って行けるぞ。」ということだったのだろうが、実は「地の果て」にも平安時代以降、ある時には関東の武家を圧倒する、地域独自の暮らしが続いていた。著者は篤農家であり、日々の暮らしの底を流れる「伝えられたこと」を見分ける眼を持っている。
そうした「自分らしい」暮らしが、1960年代に激変するのは、地の果てだけでなく、日本全国同じだった筈だ。向かいの家にテレビが入って、近所の人々と一緒に押し掛け、双葉山の相撲を見ているうちに、暮らしの在り方を決めるのは、自助努力によってではなく「コウドケイザイセイチョウ」という見たことも無いものになってしまった。
しかし南伊豆の「地域の力」には「コウドケイザイセイチョウ」よりもはるか昔から、人々が目にして来たこともある。
神奈川条約による開港場は下田と函館であったが、それまでも南伊豆の風待湊は、江戸と上方に直結していた。小稲の「虎舞」は、釜石・大船渡などと同じく「國姓爺合戦」もので、陸上権力の手の届かないところで、盛んだった海上文化交流を感じさせる。妻良小浦も「風が悪い」と称して、東西の船頭に足止めをくらわして、栄えて来たところだ。
オッペケペーの川上音二郎も「欧米を訪問する。」ということで小舟に乗って築地を旅立ち、この辺りでしばらく「風待」をしていたようだ。
本書で著者が愛情を込めて記しているのは「分校」今で言う静岡県立下田高等学校南伊豆分校のことだ。戦後新制高等学校が始まった時、南伊豆の人々は自分達の持ち寄りで、園芸学校を作ってしまったのだ。名前は県立だが、実質は町営の「塾」-と言っても、今の受験塾ではなく、幕末の松下村塾の様なものだったのではなかろうか。
地元でみっちりと仕込み、年限を終えたものは、県内外の先進地に修行に出かけるというのも、明治以降の「隊長さんが「死ね。」と言ったら文句を言わずに死ね。」という富国強兵の為の、国家による教育よりも古い、地域の力を合わせた「教育」の形を伝えていたのだろう。「地の果て」の遠隔地ならばこそ「自分らしい」生き方をする為の、子弟教育を実現する地域の力があったのだ。
「コウドケイザイセイチョウ」の結果、「地の果て」でも「自分らしい」生き方がますます難しくなっているのではなかろうか。
昭和30年代にラッキョのおろぬきを「エシャレット」と称して全国に送り出し、子供を育てた浜松市五島浜でも、「自分らしい」生き方がますます難しくなっている。
一条村には海が無いが、私は海育ちなので、海岸にも興味がある。いずれ小稲の「虎舞」も見に行きたい。 三島神社の楠
吉田謹治
静岡県賀茂郡南伊豆町一条684
私家版 2010
南伊豆まで出かけて、地域のこれまでの暮らしについて知りたい、と聞いたら、この本が出て来た。
静大初め、偉い先生が指導した調査報告書の類いもどっさりあるのだが、本書は昭和26年生の著者の、実際に経験したことに限られており、本書から一番「地域の暮らし」がよく見える。
私家版 2010
南伊豆まで出かけて、地域のこれまでの暮らしについて知りたい、と聞いたら、この本が出て来た。
静大初め、偉い先生が指導した調査報告書の類いもどっさりあるのだが、本書は昭和26年生の著者の、実際に経験したことに限られており、本書から一番「地域の暮らし」がよく見える。
吉田さんは一条村の専業農家。一条竹の子村の向かいの家だそうだ。昭和24年生の私は小学校5年生まで舞阪町で育ったので、概ね同じ時間を生きている。
しかし舞阪町が東海道線の駅を持つ古来の海道筋、明治時代からの観光地であり、漁業という基幹産業もあったのに対し、南伊豆町は静岡県でも「地の果て」だ。舞阪では「文明開化」は頼みもしないのに、ぼたもちの如く上から降って来たが、伊豆では北条・頼朝の時代から下田船見御番所まで続いた、昔日の繁栄が「文明開化」特に東海道鉄道の開通で奪われたのだ。明治の一時期、帆船がもたらした「松崎繭」の繁栄が最後の栄光だろう。
上から目線で見れば、1961年伊豆急開通によって「これからは「土人が裸で踊りを踊」れば、食って行けるぞ。」ということだったのだろうが、実は「地の果て」にも平安時代以降、ある時には関東の武家を圧倒する、地域独自の暮らしが続いていた。著者は篤農家であり、日々の暮らしの底を流れる「伝えられたこと」を見分ける眼を持っている。
そうした「自分らしい」暮らしが、1960年代に激変するのは、地の果てだけでなく、日本全国同じだった筈だ。向かいの家にテレビが入って、近所の人々と一緒に押し掛け、双葉山の相撲を見ているうちに、暮らしの在り方を決めるのは、自助努力によってではなく「コウドケイザイセイチョウ」という見たことも無いものになってしまった。
しかし南伊豆の「地域の力」には「コウドケイザイセイチョウ」よりもはるか昔から、人々が目にして来たこともある。
神奈川条約による開港場は下田と函館であったが、それまでも南伊豆の風待湊は、江戸と上方に直結していた。小稲の「虎舞」は、釜石・大船渡などと同じく「國姓爺合戦」もので、陸上権力の手の届かないところで、盛んだった海上文化交流を感じさせる。妻良小浦も「風が悪い」と称して、東西の船頭に足止めをくらわして、栄えて来たところだ。
オッペケペーの川上音二郎も「欧米を訪問する。」ということで小舟に乗って築地を旅立ち、この辺りでしばらく「風待」をしていたようだ。
本書で著者が愛情を込めて記しているのは「分校」今で言う静岡県立下田高等学校南伊豆分校のことだ。戦後新制高等学校が始まった時、南伊豆の人々は自分達の持ち寄りで、園芸学校を作ってしまったのだ。名前は県立だが、実質は町営の「塾」-と言っても、今の受験塾ではなく、幕末の松下村塾の様なものだったのではなかろうか。
地元でみっちりと仕込み、年限を終えたものは、県内外の先進地に修行に出かけるというのも、明治以降の「隊長さんが「死ね。」と言ったら文句を言わずに死ね。」という富国強兵の為の、国家による教育よりも古い、地域の力を合わせた「教育」の形を伝えていたのだろう。「地の果て」の遠隔地ならばこそ「自分らしい」生き方をする為の、子弟教育を実現する地域の力があったのだ。
「コウドケイザイセイチョウ」の結果、「地の果て」でも「自分らしい」生き方がますます難しくなっているのではなかろうか。
昭和30年代にラッキョのおろぬきを「エシャレット」と称して全国に送り出し、子供を育てた浜松市五島浜でも、「自分らしい」生き方がますます難しくなっている。
一条村には海が無いが、私は海育ちなので、海岸にも興味がある。いずれ小稲の「虎舞」も見に行きたい。
平安時代のはじめの大同年間(西暦806-810年)に創建されたものといわれる三島神社の境内に鎮座し樹齢1,000年以上ともいわれる。確かに古そうだ。
by dehoudai
| 2013-08-20 11:20
| まちづくり
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