2013年 08月 16日
天守門と松茸最中 |
井上正甫公の一件は、伊達騒動で有名な「高尾の吊るし切り」同様、フレームアップではないかと思う。老中狙いの水野忠邦方面が臭い。綱宗一件は大槻文彦先生が、きっぱり「ウソだ。」と断じておられたのだが、こちらも誰か無実を明かしてくれるものが、出るのを願う。
正甫公の長男正春公は水野越前守失脚後、上州館林から故地の浜松へ復帰した。その際に館林からもたらされた上州木綿は、浜松に根付いて、その後の浜松の姿を作る大きな資産となっている。
正春公のおかげもあって、幕末明治の遠州は木綿の産地になっていた。清水次郎長一家が羽織っていた「縞の合羽」も遠州木綿だ。明治23年東海道鉄道が開通すると、遠州の商人は反物を担いで鉄道に乗り、全国へ散って行った。
大正12年9月1日、関東の機業地が甚大な被害を受けた折、浜松は無事に残った。翌大正13年9月1日「工場法」施行により、それまで低賃金の若年労働に支えられて来た、河内木綿など伝統的な産地は苦境に陥った。浜松はこれと対照的に、大正元年鉄道院浜松工場創業以来、浜松に流れ込んで来た職人衆によって、下町からの織機近代化が進められた。
国家の推進する「桑茶輸出」が、ナイロンの発明で打撃を受けた後も、遠州木綿はアジアの各地へと拡がって行き、織機の輸出がこれに続いた。そしてそのまま戦後のポンポンの時代へ、さらに軽自動車の時代へと流れ込み、現在の浜松を形作っている。
浜松の産業近代化は、国家主導型でなく、路地裏から、というのが特徴だろう。
元を辿れば正甫公が奥州棚倉へ移封されたのが、現在の工業都市の成り立ちに大きく関わっているのだ。人間ばかりか都市の歴史も塞翁が馬みたいなところがある。
おてんし
馬糞通
by dehoudai
| 2013-08-16 15:03
| まちづくり
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