2013年 08月 03日
Casablanca |
Casablanca
監督:Michael Curtiz
出演:Humphrey Bogart
Ingrid Bergman
Paul Henreid
製作:Warner Bros. 1942
不朽の名作。歴代アメリカ映画人気第2位だそうな。
不朽のラブロマンスというより、国策映画の名作だろう。西部開拓史も原住民を絶滅させて、海へ達してしまった。次の一手は何にしよう、と考えていたら、海の向うの野蛮なサルが、まんまと謀略に引っかかって、真珠湾で2,400人程殺してくれた。
しかし「戦争だっ。」と言ったところで、米国の一般大衆は大量消費時代にうつつを抜かして、非常時意識に欠けておる。
何とかせい、という指令が軍部からハリウッドに伝えられたのだろう。戦意高揚映画といっても、軍が金を出そうというわけではない。製作陣は頭をひねって「戦意高揚かつヒット狙い」という難問に取り組んだのだ。
カサブランカが舞台に選ばれたのは、アルジェを舞台にした「望郷」がヒットし「月の砂漠」式のエキゾチシズムが、戦争という「男のロマン」にぴったりだったからだろう。
母はペペルモコが戦時輸入禁止をくらって、見られなかったのに、御学友は上海で見て来たのが羨ましかったそうだ。
家尊は昭和8年渡満、昭和21年引き上げなので、この映画も満州国との対比で見てしまう。荒筋は満州国を舞台に、悪玉を中国と米国、善玉を日本にしても充分ヒットしそうだ。
しかるに当時の日本の戦意高揚の為の映画というと「軍部のご指導」による「隊長さんが「死ね。」と言ったら黙って死ね。」式のものばかりで「勝った、勝った。」のうちは良かったが、旗色が悪くなるととたんに「あれは映画の中の話さ。」になってしまったのではあるまいか。
木下恵介も戦意高揚映画を作っているようだが見ていない。しかし同じ時期のことを書いた大岡昇平の「レイテ戦記」、尾崎士郎の「人生劇場望郷編」などを読むと、日本の戦意高揚は、シロートである軍人さんが「言う事を聞け。」と威張るばかりで、文士という人的資源を、さっぱり活かしていなかったことが見て取れる。大方映画屋さんもシロートに軍刀で追い回されていたのだろう。
軍人に限らず、日本の御奉行様連が「戦争」と「戦闘」を取り違えているのは、今も昔も変わらないのではないだろうか。「お国のために「死ね」しかねーか。」というのと、ラブロマンスの名作にのぼせ上がって「ボギー俺も男だ。」というのでは、戦力に大分差が出るのではなかろうか。
先日来「ナチスに倣って、国民の知らないうちに憲法を変えたら。」とやって笑い者になっている某君も、ドイツ国民が百も承知で、他を以て代える手段が無いために、ナチスに傾倒したのはご存じないのだろうか。
ヴェルサイユ条約によって「負けたんだから、戦費は親の総取り」となり、他の手段ではドイツ國民は全員餓死というのが、ナチスの台頭した理由だろう。ああいう頭の悪い人は「戦争」と「戦闘」の区別も付かなかろう。
昭和16年11月の御前会議では「勝てるのか?」という御下問が2度重ねられているという。
「勝てないからヤメロ。」という意味なのだが、「戦争」と「戦闘」を取り違えた連中は「勝てます。」「勝てます。」と2度も答えている。
「綸言汗の如し」という通り、天皇に同じことを2度も言わせるのは、当時の「神聖にして犯すべからず。」というタテマエからは、切腹ぐらいでは申し訳が立たない筈なのだ。
しかしアラブの過激派同様、金の無いものに取っては、人間が一番安上がりな使い捨ての武器だ。明治以来営々として「隊長さんが「死ね。」と言ったら、文句を言わずに死ね」という国民教育をして来たのだから、人力で勝てる筈だとしか思っていなかったのだろう。
軍人に限らず、日本の御奉行様連が「戦争」と「戦闘」を取り違えていたのが、第二次大戦でしくじった原因だろうが、福島第一の処理を見ても、この国には
監督:Michael Curtiz
出演:Humphrey Bogart
Ingrid Bergman
Paul Henreid
製作:Warner Bros. 1942
不朽の名作。歴代アメリカ映画人気第2位だそうな。
不朽のラブロマンスというより、国策映画の名作だろう。西部開拓史も原住民を絶滅させて、海へ達してしまった。次の一手は何にしよう、と考えていたら、海の向うの野蛮なサルが、まんまと謀略に引っかかって、真珠湾で2,400人程殺してくれた。
しかし「戦争だっ。」と言ったところで、米国の一般大衆は大量消費時代にうつつを抜かして、非常時意識に欠けておる。
何とかせい、という指令が軍部からハリウッドに伝えられたのだろう。戦意高揚映画といっても、軍が金を出そうというわけではない。製作陣は頭をひねって「戦意高揚かつヒット狙い」という難問に取り組んだのだ。
カサブランカが舞台に選ばれたのは、アルジェを舞台にした「望郷」がヒットし「月の砂漠」式のエキゾチシズムが、戦争という「男のロマン」にぴったりだったからだろう。
母はペペルモコが戦時輸入禁止をくらって、見られなかったのに、御学友は上海で見て来たのが羨ましかったそうだ。
家尊は昭和8年渡満、昭和21年引き上げなので、この映画も満州国との対比で見てしまう。荒筋は満州国を舞台に、悪玉を中国と米国、善玉を日本にしても充分ヒットしそうだ。
しかるに当時の日本の戦意高揚の為の映画というと「軍部のご指導」による「隊長さんが「死ね。」と言ったら黙って死ね。」式のものばかりで「勝った、勝った。」のうちは良かったが、旗色が悪くなるととたんに「あれは映画の中の話さ。」になってしまったのではあるまいか。
木下恵介も戦意高揚映画を作っているようだが見ていない。しかし同じ時期のことを書いた大岡昇平の「レイテ戦記」、尾崎士郎の「人生劇場望郷編」などを読むと、日本の戦意高揚は、シロートである軍人さんが「言う事を聞け。」と威張るばかりで、文士という人的資源を、さっぱり活かしていなかったことが見て取れる。大方映画屋さんもシロートに軍刀で追い回されていたのだろう。
軍人に限らず、日本の御奉行様連が「戦争」と「戦闘」を取り違えているのは、今も昔も変わらないのではないだろうか。「お国のために「死ね」しかねーか。」というのと、ラブロマンスの名作にのぼせ上がって「ボギー俺も男だ。」というのでは、戦力に大分差が出るのではなかろうか。
先日来「ナチスに倣って、国民の知らないうちに憲法を変えたら。」とやって笑い者になっている某君も、ドイツ国民が百も承知で、他を以て代える手段が無いために、ナチスに傾倒したのはご存じないのだろうか。
ヴェルサイユ条約によって「負けたんだから、戦費は親の総取り」となり、他の手段ではドイツ國民は全員餓死というのが、ナチスの台頭した理由だろう。ああいう頭の悪い人は「戦争」と「戦闘」の区別も付かなかろう。
昭和16年11月の御前会議では「勝てるのか?」という御下問が2度重ねられているという。
「勝てないからヤメロ。」という意味なのだが、「戦争」と「戦闘」を取り違えた連中は「勝てます。」「勝てます。」と2度も答えている。
「綸言汗の如し」という通り、天皇に同じことを2度も言わせるのは、当時の「神聖にして犯すべからず。」というタテマエからは、切腹ぐらいでは申し訳が立たない筈なのだ。
しかしアラブの過激派同様、金の無いものに取っては、人間が一番安上がりな使い捨ての武器だ。明治以来営々として「隊長さんが「死ね。」と言ったら、文句を言わずに死ね」という国民教育をして来たのだから、人力で勝てる筈だとしか思っていなかったのだろう。
軍人に限らず、日本の御奉行様連が「戦争」と「戦闘」を取り違えていたのが、第二次大戦でしくじった原因だろうが、福島第一の処理を見ても、この国には
accountability=想定能力が無い代わりに、あるのは切腹だけで、貴重な負け戦からさっぱり学んでいない。
responsibility= 対処能力
liability=補償能力
by dehoudai
| 2013-08-03 16:58
| はんせんろん
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