2013年 07月 08日
Genius Loci |
Christian Norberg-Schulz
Rizzoli 1991
ゲニウス・ロキ
建築の現象学をめざして
クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ
加藤 邦男、 田崎 祐生
住まいの図書館出版局 1994/7
という本があって、しばらく前に建築デザイナーの間で話題になった。
建築を建築として現象させる
都市を都市として現象させる
のに「地霊」が大きく関わる、という説だ。プラハ、ハルトゥームの地霊について述べ、ローマの地霊に付いて述べる。
しかしどうも、キリスト教的知性というタコツボから、外界を眺めている様で、ヒンドゥー教やら、神道の様な八百万神を信奉するものからすれば、ありきたりの印象を受ける。
もっとも小生から2廻り上の、高名な建築評論家であるTさんにお会いした折「お国は東=上がり、西=入りとか、ウダキとか、ゲニウスロキの本場ですね。」と申し上げたら、きょとんとしておられた。文明開化以来の知識人は、やはりキリスト教的知性というタコツボから、外界を眺めている様だ。
世界遺産にしても、最初「歴史遺産」「自然遺産」という二分法だった頃は、「キリスト教による教化啓蒙の跡」と「滅ぼさないで残しておいてやったもの」という趣が強かった。キリスト教の祝福に与らない異教徒は、鳥獣と同じく自然の一部なのだ。
ヨーロッパ諸都市でも「キリスト教による教化啓蒙」で滅ぼされてしまった「地霊」が都市・建築を形作っている事が多い。キリスト教によって滅ぼされてしまった、それまでの信仰も、鳥獣と同じ自然の一部というこれまでの扱いが、近年になって振返られているのだろう。熊野古道の登録に際し、二分法ではなく「複合遺産」という新たなジャンルを作ったのは、その成果だ。
近代科学も「普遍化」「世界征服」という点ではキリスト教と似た働きをする。世界中の建築・都市が、同じのっぺらぼうになってしまうとしたら、ちょっと怖いものがある。
既にTPP等の関税撤廃交渉で、そのために多年準備を重ねて来た国際資本によって、世界中の食べ物はのっぺらぼうになりつつある。
しかし「ゲニウスロキ」「地霊」などと大げさなことを言わなくとも、浜松市内にも「逝きし世の面影」を見出す事はある。
公共事業が難しいのは「公園は公園」「河川は河川」であって、「公園の様な河川」「河川の様な公園」というのが中々難しいのだ。
現代日本の法律も「普遍化」という点で、キリスト教と似た働きをする。ドイツの様に都市国家が集まって近代国家を作った訳ではなく、ルネサンスの頃には家康が「天下統一」をしてしまった、という下地もある。
地域のゲニウスロキに精通したものが、法律を作っている訳ではないので、法律に書いてない事をしようと思うと「想定外」となってしまって難しい。
元浜橋周辺は家康の時代の都市計画事業で、不自然な河川流路が築造されたところであるから、その後水害にも悩まされた事だろう。そうした地域の怨念もゲニウスロキの一部だ。
新川沿いの同様に不自然な河川流路は、賽ヶ崖下の勤労会館の廻りにも見られる、古図には「硝煙蔵」とあり、東京都北区瀧野川にある醸造試験所の故地と同じく、幕藩時代の火薬庫だろう。いざという時には栗橋廻りの堰を切ると、水浸しになる仕掛けではなかったろうか。
現在の東京都北区滝三小つまり硝煙蔵は、千駄木を通って不忍池へ落ちていた石神井川を、家康が飛鳥山をぶち割って、王子へ落とした後に、旧河道に作られたものだ。どこぞの堰板を切ると、石神井川が元の河道を走る仕掛けである。石神井川の末を瀧野川と呼ぶのは、飛鳥山をぶち割った折の落差が、滝になったためだろう。
真向坂は抹香坂という説もあるが、曳馬古城、今の東照宮を真向に見る坂でもある。賽ヶ崖自体、クランクの仕方、等高線など見ると、江戸城の外堀にそっくりだ。
当時の築城労務者は用済みになると、軍事機密保護の措置が取られたとのことで、遠州大念仏にもウラがあるかもしれない。
大方の自治体職員は、こうしたゲニウスロキという地域資産を活用して、都市の直面する課題を解決しようと、頭をぶりしぼって、苦戦するのだが、労多くして実り少ない。都市計画法など、法律と称するものが実は、地域資産などどうでも良い、地方は国に尻尾を振っておれば良い、という出来になっているからだ。
通勤時間になると、国家中枢部がゴミ袋を下げて歩いている様な、世田谷・杉並でも、国との押し問答は大変なのだから、遠隔の地方都市ではなおさらである。
地域の事など知らぬが、受けの良かった先進事例を、地名を入れ替えて横流しする様な、他所のコンサルタントにまかせっぱなしで、自分では考えようとしないものが出世したりするのだ。
タイムスロープ
by dehoudai
| 2013-07-08 14:28
| 浜松の都市伝説
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