2013年 07月 01日
溢水 |
確かにそうなのだが、小生に言わせれば中心市街の緑が少なすぎるのだ。かろうじて残されていた斜面緑地も、バブル期に大分減ってしまった。既に人口は減少に向かい「建物を建てるなどもったいない」と言う時代なので、アキチをそのままにしておけば良かろうと思う。
50年もすれば草ボーボーになって、そのうち樹も生えて来るだろう。庭師にとっては我慢できないかもしれないが、亀山町の辺り、御一新の折にはまだ、井上公移封の後の、水野の時代の組屋敷が無住のまま、草ボーボーだったそうだ。
水野家は西の丸狙いの進駐軍なので、公務員宿舎を新規開発しなければならなかったが、井上家は故地なので「お帰りなさいませ。」と組屋敷も簡単に手配できたのだろう。
小生が小学校の折には浜松城公園も、今の様に隅々まで手入れされてというわけではなく、結構草ボーボーなところがあった。中中のプールの辺りは小松の生える山で、カブトムシを取りに行ったものだ。
日本の都市景観は概ね「60年ごとに草ボーボー」というのを繰り返す事で、破局を免れているというか、都市の論理以外の事由で、破局を繰り返しているので、都市の論理が育たないのではなかろうか。
明治以降の東京の都市計画は、あってなきが如しである事は、都市公園と言っても大名屋敷の跡か、関東大震災の折の、瓦礫置場であるのを見ると良く解る。
その点京都の街には1,300年の怨念が漂っている様な気配がする。ゲニウス・ロキの「ゲニウス」は「怨念」と解釈すれば解りやすい。
先日は道路の上に張り出した枝を下ろしに来てくれて、冬の日当りだけでなく、夏の風通しも少し改善された。
都市下水などというもったいない事をせずに、汲取便所の肥えを畑に入れるのがエコロジーというものだ。という田園派も居るが、中心市街地暮らしからすれば、手入れもせずとも、住宅内部に便所の匂いの流れないのは、便利には違いない。
便利で済ませてしまうので、都市下水の処理水がどこへ行くものやら、常日頃は気にもしないのが水質悪化に輪をかける。小規模下水道ならまだしも、広域下水道と言うのも手に負えないシロモノだ。
130709
もったいない
川が臭い
都市型洪水
水に親しむ文化
by dehoudai
| 2013-07-01 11:25
| まちづくり
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